5
昨夜のことは、夢だったのではないかとゆめは思っていた。
ビルの狭間の不思議な邂逅はあまりにも現実味がないうえ、男の美貌は人間離れしていたからだ。
思い返すほどに男の姿は闇にぼやけて人間味を失い、ただただ美しかったことだけが記憶に残る。説明をしようとした相手であるひかりは聞く耳を持たず、必死に話そうとするほどにゆめ自身が自分の記憶に疑いを持った。
(あれは……夢だったのかもしれない)
一晩寝て、疑念はますます強くなる。
遅く帰ることに対する罪悪感と、人ごみを避けて入り込んだ暗がりによる想像の飛躍が合わさって、ゆめが作り出した妄想の出来事だと思い始めていたのだが。
振り向いたゆめの背後に立つ男は、たしかに昨日の夜に出会ったそのひとであった。
闇に溶けてしまいそうな漆黒の髪と人形めいた白い肌。なにより、ガラス玉のように透き通った瞳を持つ人間などそうそういるものではない。
「あ、あなたは……」
目にした途端、夢か幻のだと思い始めていた男の姿が鮮明に思い出された。
驚きのあまり後ずさるゆめを前に、男は両手を肩のうえに上げて広げて見せる。
「逃げるな。取って喰おうってんじゃねえ。話を聞きたい」
しぐさこそ謙虚なものの、男の喋り方は不遜そのもの。けれどそれが妙に似合っていて、ゆめはつい警戒心が薄れてしまう。
男の声に不穏な感情が感じられなかったことも、ゆめの警戒を緩める一助となった。
「ち、近寄らないって約束するのなら」
「じゃあ、そこのベンチに座れ」
尊大だが、男のことばにゆめを侮る響きは感じられない。
恐る恐るベンチの端に腰かけながら、ゆめはベンチの反対端に座って脚を組む男を観察する。
(やっぱり、このひとからはほとんど感情が伝わってこない)
意識して感情を探れば、わずかな感情が伝わってくる。
億劫、眠気、空腹。
どれも向かう先は男自身へのもので、ゆめを傷つけはしない。そのことにほっとしたゆめがさらに注意してみても、男の抱える感情はわずかにしか感じ取れなかった。
「満足したか」
「えっ」
黙り込んでいたゆめは男に声をかけられて肩を跳ねさせる。
気づけば、男のガラス玉のような瞳と見つめ合っていた。感情を探ることに夢中になるあまり、相手を凝視していたことに気づかなかったらしい。
異性に慣れないゆめは、見つめ合っていたと意識した途端にぼっと顔を赤くする。
「それで、なんか見えるのか」
男の問いにゆめはぱちぱちと瞬いた。
見える、とは何だろうと不思議そうにするゆめに、男のほうが首をかしげる。
「お前の目、なんか特別な目なんじゃねえの? それで俺のこと人間じゃないって見破ったのかと思ったんだけど」
「あっ」
言われて、ゆめは思い出した。
昨夜、男に向けて「人間じゃないのか」とつぶやいたことを。
(聞かれてたんだ!)
羞恥が恐怖に塗り変えられる。
ゆめが「心を読む」と言った母親はゆめを化け物と罵った。母親のことばを信じなかった父親だが、父親の不機嫌を察してはうかがうような言動をとるゆめをかわいくないと断じた。その結果、ゆめは家族を失った。
他人の感情を感じ取るという能力のせいで両親に捨てられたゆめは、能力が露見することが何よりも恐ろしかった。
引き取ってくれた祖父母は亡くなり、付き合いのある親族はひかりだけ。そのひかりとも折り合いが悪くなってきている。
(こんな気持ち悪い力があるってばれたら、またひとりになっちゃう。今度こそ、ひとりぼっちになっちゃう……)
いつか、両親に疎まれたゆめの手をとってくれた祖父母はすでにいない。
今度こそ周囲に誰もいなくなってしまうのではないか。ほんのすこし前、祖母の葬式の席で浮かんだ思いがゆめの胸を支配し、ゆめの視界は、勝手にじわじわとにじんでいく。
「お、おいっ。なんで泣く!?」
焦ったような声に応える余裕もなく、瞬いたゆめの目から雫がこぼれた。
「くそ、だから俺ひとりじゃ無謀だって言ったんだ!」
「えっ」
悪態に続くはずの悪感情がないことを不思議に思う間も無く、ゆめは男に手を引かれて立ち上がる。
大きな手は男の印象そのままにひんやりとしていたけれど、ゆめを痛めつけることも傷付けることもなくただ包み込む。
(冷たい、けど不快な冷たさじゃない……)
触れた肌の感触に気を取られていたゆめは、ハッとして踏ん張った。
「ど、どこへ連れて行く気ですか!?」
「あ〜……めんどくせぇ、ちょっと夢うつつになってろ」
言うなり、男は身を寄せてゆめの顔を見下ろす。
急な接近に驚き顔をあげたゆめはまともに男の顔を見てしまう。
(あ……)
男の切長な目と視線が絡まった途端、ゆめの意識が淡く揺らぐ。傾いだ体はあっけなく男の腕のなかにおさまった。
不審な人物の腕でおとなしく抱えられるなどあり得ない。
そう思うのに、そう思う気持ちさえも急激な眠気にぼやかされて解けてしまう。
「寝るなよ。寝たらお前の夢を喰うぞ」
「ゆめ、を……たべる……?」
とろとろとふやけた意識で男のことばを必死に拾ったゆめに、男はにいっとくちびるをつりあげた。
「ああ、俺は夢を喰う獏。ヒアイだ」
「ばく……」
それはなんだったろうか、とぼんやり繰り返すゆめの背中と膝裏にヒアイの腕がまわる。
抵抗することに思考がたどり着けないゆめはされるがまま、彼の腕におさまり胸に抱かれた。
「あとで教える。いまは大人しくしてろ」
軽々とゆめを抱え上げたヒアイは、夜の闇に溶けるようにゆったりと歩いて行った。