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 逆らわず、流れに乗りながらもやがてゆめは雑踏の隅にたどり着いた。

 煌々と照らされた夜の街の片隅に生まれたビル間の影は、居場所を無くした、街じゅうの静けさを濃縮したように暗く濃く横たわっている。

 常人ならば近寄ることをためらうだろうその暗闇が、ゆめには心地よい。

 こっそりと息をついたゆめは、暗がりを抜けて家を目指そうとビルとビルのすき間に歩を進めた。


(誰か、いる)


 いくらか進んだところでゆめは脚を止めた。

 脚を止めてから、目が闇に慣れてじわじわとあたりの景色が見えてくる。

 明かりのないビルの狭間で寄り添う一組の男女がそこにいた。

 壁に背をもたれさせた男にしなだれかかる女。うっとりと男を見上げる彼女から感じるのは哀切と恍惚。

 暗がりのなか、ゆめが脚を止めたのは彼女の感情を察知したからだった。

 ほとんどシルエットしか見えないふたりの顔がゆるゆると近づいていく。見上げる女の額と見下ろす男の口元の影が重なろうとしたとき。


「き、キスシーン……!」


 思わずうめいたゆめの声に、男がぴくりと反応した。

 

「あ?」


 低い声に、赤面していたゆめはさっと青ざめる。

 感情を読むまでもない、彼の声ににじむのは不機嫌さだ。


「ご、ごめんなさ!」

「きゃあっ!?」


 慌てて謝ろうとしたゆめの声をさえぎって、悲鳴があがる。

 悲鳴の主は男にしなだれかかっていた女だ。


「やだ、誰あなた!? え、イケメン……え? あたしこんなところでなにを……」


 混乱、羞恥、恐怖。

 どっと溢れた女の感情に当てられて、ゆめはその場に立ちすくむ。

 その間に、女は男を押しのけて駆けて行ってしまった。邪魔者のはずのゆめをにらむどころか、一瞥もくれずに走り去る。


「え……」


 遠ざかる女の背中を呆然と見送っていたゆめがハッとしたときには、男が真横に立っていた。

 頭ひとつ分上からゆめを見下ろす男は、黒髪に黒い服をまとっているせいでほとんど闇に紛れ、顔も姿もよく見えない。

 ただ、向けられたガラス玉のような瞳に確かな感情が見受けられないことに驚いて、ゆめはつい男と視線を絡めてしまう。


「うん? なんだ、お前も悪くない悲哀を抱えてるな?」


 きょとんと瞬きをした男が、不意に目を細めた。

 途端にゆめの意識がとろりととろける。


「な、に……?」


 ひどい眠気を感じてゆめはよろめく。

 頭の芯がぼうっとなって、身体の自由が利かない。自分の身体なのにひどく重たく、動かすことが億劫になる。

 足元がむき出しのコンクリートであるとわかっているのにも構わずしゃがみこんでしまいたくなったゆめの腰に、男の手が回る。


(やだ、さわらない、で……)

「眠りに身を任せろ。恐れることはない、ただ眠るだけだ」


 振り払わなければ、と気力だけで抗おうとするゆめの耳に男がささやく。

 低く、甘い声が吐息とともに流しこまれてゆめの頭はますますぼうっとなっていく。

 抵抗は疑問へ。疑問は酩酊へ。ふわふわと形を無くした思考の端に男の声が聞こえる。

 

「お前の悲哀、俺が喰ってやる。目覚めればすべては夢のなか、だ」

「ゆ、め……」


 腰を支える手とは別の手が、自分のあごに触れたのにゆめは気づかなかった。

 ただ、持ち上げられた視線の先に男と顔が見えてゆるりと瞬きをする。


(きれいな、かお。よるのいろがよくにあう)


 とろけた思考は無防備に男の顔を称賛した。

 濃い影に呑まれて見えなかった顔形が、互いの距離が近づいたことでよく見える。

 闇色の髪と同色の衣類に包まれているせいで抜けるように白い肌が浮いて見えた。慣れない化粧を施したゆめの肌より透明感のある顔にガラス玉のような瞳がはまっている様は、まるで人形のようだ。

 人形めいた美貌をわずかに笑みの形に変えた男の顔がゆるゆると近づいてくるのに、ゆめは目も閉じずに彼の顔を見つめていた。


(すごく、おちつく……)


 ゆるくほどけた思考は、恥じらいを覚えることもなく望むままに男のことだけを思う。

 他者の感情を汲み取ってしまうゆえに、ひととの距離を取りたがるゆめが異性をこれほど近寄せたのは祖父以外では記憶にない。

 だというのにこの忌避感の無さはなぜだろうとぼやけた頭で考えて、そこにゆめを苛む強い感情が無いことがひどく心地良いのだと思い至る。


(ああ、そっか。かんじょうがみえないからだ……感情が、見えない?)


 はた、と気が付いたゆめはぱちりと瞬きをひとつ。途端に思考が晴れ渡り、額に迫る熱にゆめは跳びあがった。

 額に口づけられる寸前だったのだと赤面したゆめが後ずさるの見て男が顔をしかめる。


「ああ?」

「ひっ」


 不機嫌な声がゆめは怖い。

 遠い日の両親を思い出してしまうため、知らずに身体が強張ってしまう。そして、目には見えない不機嫌な感情に痛みを感じるのが怖いのだ。

 けれど。


「痛く、ない……」


 男の不機嫌な声をゆめは確かに聞いた。

 けれど、そのあとに続くはずの負の感情を感じない。とっさに抱きしめた胸にそっと触れて、ゆめは息を細く吐く。

 

(もしかして、本当に人形なの? こんなにきれいな男のひと、見たことないし……)


 警戒しつつも観察するゆめを前に、男が無造作に前髪をかきあげた。

 乱暴なしぐさにびく、と震えたゆめに「はあ」とため息をつく男だが、呆れや見下す感情がゆめを傷つけることはない。


「人間じゃない、の……?」


 ぽつりとこぼれたことばに男の目が見開かれる。

 ようやく人間らしい感情を思わせる動きを見せた男の表情に、ゆめは我に返った。


「っさようなら!」


 身を翻し、全力で冷たいコンクリートを蹴りつけた。


「待て!」


 後ろから追いかけてきた男の声は鋭い響きを孕んでいたが声は声でしかなく、怒気も苛立ちも含まない声はゆめの心を傷つけず、脚を止めることもない。

 ゆめは男を振り向かないまま暗がりを抜けて、人ごみに姿を隠したのだった。

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