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梅雨(仮)  作者: 桜井 薫
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その1

 諒は見つめていた。雨の中立ち尽くす瑞穂の姿を——


 雨が続いていた。一年前の梅雨の時期に彼女は消えた。何の前触れもなく彼女は諒の前を立ち去った。瑞穂の存在に諒は僅かな恋心を抱いていた。屈託のない彼女の存在は諒に心の余裕を与えた。そして諒は彼女からも自分への恋心をかすかに感じ取ることができていた。


 できていたはずだった。


 互いに思い合っていたはずだった。あとは言葉にすれば思いが届くところだった。そんな最中、彼女は諒の前から消えてしまったのだ。

 昨年の六月、梅雨のじめっとした湿気が体を覆う記憶が脳裏に浮かぶ。諒は汗を掻きながら黙々と仕事をこなしていた。いつもなら湿度の高い空気を連れて瑞穂が出勤する時間帯だ。時刻は午後六時。部屋の中は空調が効いているため、少しの湿りっけが入ってきても一瞬で湿度を取ることができた。しかし、入り口が開くとともに入ってくる湿度はどうしても感じてしまう。

 しかし、その湿度とともに入ってくる瑞穂の顔を見ることでどこか相殺されてしまう時があった。諒はそんな瞬間さえも愛おしいと感じていた。

 しかし、今日、出勤するはずの瑞穂は現れなかった。一日後も、一週間後も、一ヶ月後も現れることはなかった。無断欠勤などする人ではなかったし、そんな印象もなかった程、瑞穂は真面目な女性だった。そんな彼女を見ることはとうとう訪れることはなかった。


 時間は経った。諒は仕事にも慣れ、相変わらず黙々と仕事をこなす日々が続いていた。


一年後の梅雨が来るまでは。


 今年の梅雨は七月に入るというのにやっと今日梅雨入りをしたばかりだ。七月初旬の曇りの続く日のことだった。去年と違い、六月は夏の暑さというよりも五月を感じさせる初夏の延長線上の暑さが続いているカラッとした暑さだと感じていた。

 それが七月に入ると一変し、生ぬるい雨と蒸し暑い湿気が通勤時に襲いかかる。諒にとってもう蒸し暑さや湿気は愛おしさを感じるものではなくて、ただ不快な思いをさせるものでしかなかった。

 仕事を終え、家に帰ると諒は窓を開けた。ベランダに降り注ぐ雨は地面を濡らしていた。陰干ししていた洗濯物にかかる僅かな雨を払い、洗濯物を取り込んでいた最中だった。ベランダ越しに女性の影が見えた。諒は人影に驚きつつ、ベランダをそっと覗き込んで見ると、そこには瑞穂の姿がうっすらと浮かんで一瞬で消えた。

 諒は初め、目を疑った。しかし、気のせいだと脳裏に浮かぶ瑞穂の姿をかき消した。一瞬とはいえ、淡い思いを抱いた女性を思い出してしまうことを不覚だと思った。


「疲れてるだけか——」


 我に帰り、洗濯物を取り込むと何も見ないようにして部屋の中に入る。そして洗濯物をたたむこともせず布団に寝転んだ。天井を仰ぐと仕事の疲れからか、一瞬にして眠りについた。


 雨はまだ降り止まない。


 次の日、諒は休みだった。家で何をするわけでもなく携帯を眺めていると家のチャイムが鳴った。何か宅配便でも来たのかと思い、インターフォンを覗き込むとそこには見覚えのある女性が佇んでいた。


「瑞穂——?」


 諒はゆっくりとドアを開けた。そこには間違いなく瑞穂の姿があった。

「久しぶり」

 瑞穂は笑顔で諒に話しかけた。諒は少し戸惑ったが一年前と同じように挨拶を返した。諒は断る理由もないので瑞穂を家に上げた。瑞穂は少し雨に濡れた衣服をハンカチで拭いてから諒の家に上がった。

 二人は他愛のない会話をした。何時間経ったことだろうか、瑞穂は「もう帰らなくっちゃ」と言って席を立つと玄関まで行った。諒はそれを追いかけるように玄関に行き、この間買ったビニール傘を瑞穂に渡した。瑞穂は嬉しそうに「助かった。ありがとう」と言って傘を受け取ると家を後にした。


 しばらくの間、毎日瑞穂は諒の家を訪れた。諒も断ることもなく瑞穂を受け入れた。諒が断らなかったのは、瑞穂に思いがあるからではなく、なんとなく気が向いたからだった。突然消えた女性など信用はできないし、何より自分が傷つくことはもうしたくなかったからだった。しかし、瑞穂は現れていつも通りに話しては帰っていく。どこか寂しくて遣る瀬無い思いを抱えた諒には、瑞穂の存在はどこか心の穴を埋める存在のような気がした。ただそれだけだった。


 ある日、諒は湿度を感じたくなかったので、空調を少しきつめに掛けた。その日はどんよりと曇った暗い空だった。昼間、流れる黒い雲を目で追いかけながら寝転がっていると、いつものようにインターフォンが鳴った。諒は誰とも確認することなくドアを開いた。すると湿気が入り込むと同時に瑞穂のいつもの屈託のない笑顔が飛び込んできた。

 それは一年前に感じていたあの淡い思い出を思い出させるような瞬間だった。諒は少し戸惑いながらも瑞穂を家に招いた。

 その日はいつもと同じいつもの他愛もない話をするだけで精一杯だった。そして瑞穂はいつものように「またね」と言って帰っていった。

 諒は心臓が止まるような痛みを抱え、瑞穂を送ったドアの前に座り込んだ。


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