四 過去
秘伝の伝授が終わって、また平穏な日々が戻ってきた。屋敷の裏で野菜を作り、時折権六の家に寄って佐切と立ち話しては、野菜を渡した。道場にもほぼ毎日通うが、権六がいない道場では、組太刀の相手にも事欠き、師匠は近頃見所にも母屋にもいないときがあって、勢い、一人で型稽古をすることが多くなっていた。それはそれで有益ではあるが、1か月もすると飽いた。
ところが、その平穏が破られる時が来た。道場に行くと、見所から師匠が手招きする。挨拶をしようとすると母屋に呼ばれた。
「室戸様がな、お主を呼んでいる。知っとるじゃろ、室戸様。今は郡代の」
「お師匠、いくら無役といっても、郡代くらいは知っております」
「おお、それなら良い。室戸様は、最近刺客に狙われておられるらしい。さすが次の家老と言われる御方じゃな」
嫌な話を聞いた。刺客を防げという話しかないな、これは。
「引き受けよ、四郎。お主とて、万年無役で良いとは思っておらんだろう。室戸様は、首尾よくし遂げれば旧禄に戻そうとおっしゃったぞ」
「それは」
「ふふ、乗り気になったか。日が沈んだら、室戸様の屋敷を訪ねよ。門番には話が通っている。案ずるな。皆伝のお主がしくじる仕事ではないわ」
正直、これは面倒なことになったとしか思っていなかったのだが、師匠は勘違いしたようだ。郡代は次代の家老だと言われ、家中で重きをなしている人物。刺客がどんな輩か知らんが、徒党を組んで襲い掛かられたら、防ぎようがない。し遂げればというが、こういう空手形が一番危ないのじゃないか。世知には疎いが、貸本だとよくある展開ではないかと思った。
とは言え、秘伝まで受けている師匠の指示であり、また如何に無役とは言え、家中でそれだけの人物からの依頼を断る勇気もないわけである。権六と佐切なら、また言い訳だとなじりそうだが、仕方あるまい。日没後、暗くなりつつある町を抜け、上士屋敷町の端の方にある、室戸様の屋敷に向かった。
門番に氏名を告げる。門番は少し怪訝な顔をして引っ込んだが、すぐに庭に回るように言われた。上士の屋敷だ、俺ごとき無役は庭で当然かと思いながら庭に回ったら、外廊下に師匠がいた。ますます怪しい・・・。
我が師匠ながら、上士との変なつながりであったり、そもそも他藩から流れてきたという割に、城下の道場は広く、謎が多い人物である。
「おう、やっと来たか。室戸様もそろそろ下城される頃じゃ。こちらから上がれ」
師匠に連れられてきた座敷でかしこまっていると、郡代と知らん顔の上士らしき人が二人入ってきた。少し離れて座る、師匠が俺を紹介する。
「この者が城谷四郎でござる。城谷九郎兵衛の倅で、我が道場の師範代を務めております」
え、俺って師範代だったの。そんなのあったのか。などと思いながら、俺も姓名を名乗り、平伏する。
「おお、九郎兵衛のな。親父殿も、良く剣を遣ったな」
知らん顔の上士の一人が言う。郡代は、何も言わず俺の顔をまじまじと見つめている。しかし、上士からよく受けた「あの目つき」ではない。冷たく、憫笑しているようなあの目ではなく、今郡代が俺を見ているのは、優しさというのか、どちらかと言えば、温かいまなざしだった。
「九郎兵衛は、精密な剣を遣いましたな。わしも彼の剣にはてこずったものでござる」
「しかし城谷は・・・今更ではあるが。城谷、貴様は親父から聞いているのだろう」
俺を差し置いて話が進んでいく。顔の知らん上士たちは、やはり俺の顔を見て、憐憫の情を浮かべているように思える。それはそうと、聞いているかとは。怪訝な顔を察して郡代が説明し始める。まさかここでその話を聞くことができるとは、思いもしない。
「お、そうか、聞いておらなんだか。二十年前、城谷九郎兵衛は中老だったわしの父を護衛していたが、仕損じた。わしの父は死にはしなかったが重傷を負って、引退せざるを得なくなった。これでこの藩の改革は二十年遅れたな。藩財政の再建は夢となりかかっている」
郡代は、淡々と続ける。
「室戸殿っ・・・」名前の分からない上士が止めようとするが、郡代は言い切ってしまった。
「刺客は今も分かっておらぬ。しかし上意だという者がいる。室戸も、城谷も、反逆の家だというわけだ」
話についていけない。郡代の親父殿は、病気で致仕されたのではなかったのか。親父殿と、俺の親父は、殿に反逆した結果、致仕され、減石されたということなのか。しかし本当に上意なら、お家断絶でもおかしくない。いったい・・・。
「まあ、昔話はそんなところで良かろう。もうすでに源之丞から聞いていると思うが、わしの護衛をせよ。親父は圧倒的に正しく、幕閣の支持もあった。だから上意といっても暗殺するしかなかったのだろう。表だっての上意討ちとなれば、幕閣は納得しないということだろう。そしてわしも。暗殺によって死なず、刺客を防ぎ切れば、藩を正すことができよう。その暁には城谷も旧禄に戻し、場合によっては加増もできよう」
「承知しました」
束の間、逡巡したが俺は受けることにした。過去のいきさつを聞いても、他人事のようにしか感じなかったが、もう無役で憫笑されるのだけは我慢がならん。ここらで挽回しなくては、嫁とりもままならんし、もうずっとこのままじゃないか。権六と佐切には短慮だと責められるかも知れんが、俺は腹を括って、郡代に加担することにした。
屋敷から下がり、師匠と歩いていると、また重大事を告げられた。
「実はの、権六が失踪した。錯乱して江戸屋敷を出奔したという。いったいどうしたというのか、心当たりはないか」
「まさか、あの真面目な権六が・・・。何か理由があったのではないでしょうか」
「わからん。なにか手紙などきていないのか」
「いえ、江戸についてひと段落した、非番は江戸の剣術道場で指南してもらう、という手紙を一度もらったきりでござる。便りがないのは良い知らせかと思っておった故・・・」
「そうか・・・。秘伝のこと、よもや漏らしたわけではあるまいな」
「まさかそのようなこと。直弟子をお疑いですか」
「いや、すまぬ。それならよい。権六のこと、心配じゃな」
なぜか最後は取って付けた言葉のように思えてならず、違和感が残った。
辻で師匠と別れ、自宅に向かった。しかし、本当にどうしてしまったのか・・・権六。子供のころから遊びや剣術に明け暮れてきた、家族同然だった男。屈託のない、真っすぐで、真面目に勘定組に勤めていたとばかり思っていたが、その裏に何かあったのだろうか。
そして佐切。あれだけ妹想いだったのに、家が立ち行かなくなるようなことを、なぜ。考えてわかることではないか。俺だって、「あの目」のこと、減石になった事件のこと、一度も話すことはなかった。奴とて、何か抱えていておかしいことはない。これ以上、考えても仕方あるまいが・・・。佐切は見舞ってやらねばなるまい。
師範代: 師範(道場主、先生)の代わりに教えることができる人のこと
上意: 藩主からの指示
幕閣: 幕府の要職にある方々(老中など)を指す
出奔: 外出の届けなく、外に出て戻らないこと
辻: 交差点