三 秘伝
夜中の道場。幽霊なんぞ信じないが、揺らめくろうそくの明かりと、隙間から差し込む月光で照らされる道場の羽目板は、奇妙に黒光りして居心地を悪くさせられる。
今日で四日目、今日が終わればあと六日。師匠から俺は秘伝を授けると言われ、十日間の深夜稽古に臨んでいた。始まる前に馬鹿みたいに冷たい井戸の水で潔斎し、道場に入ってきた。寒い。寒いが、秘伝の伝授という皆伝の儀式に、柄にもなく心が躍り、燃えたぎっている、はず、だったが。
「ではもう一度だ。この技は調子が全て。それが取れなければ死ぬ」
ひたすら師匠の扇子を叩く音に調子を合わせ、下段に構えた低い姿勢から切り上げ、刀を返さず握りを変えて峰打する。その稽古だけを、夜中じゅう続けていた。合戦の時に役立つ技というが、一体何なんだ。合戦なんて、いつの時代だって。さすがにもう続けられんと思ったとき、師匠がボソッと言う。
「この稽古は今日これで終わりだ。明日からは、居合を遣う」
「はあ~、え、居合、とはまた・・・」
昼間は屋敷の裏手の畑で作っている大根や葉物に水をやったりはしたが、ほとんど寝ていた。夜中じゅう扇子の音を聞いていたものだから、うたた寝でも音が聞こえてくる気がする。幻聴というやつである。しかし寝ていてもぴったりと調子が取れることがわかる。あれだけやればそりゃそうなるだろうが。
技は遣えても、使い道が分からないとは・・・。
夜中になってまた道場に行く。これまで同様、井戸水で潔斎して道場に入る。流派には居合技はない、かどうかは知らないが少なくともこれまで習得した技の中にはなかった。
道場の見所には、二尺一寸くらいの短か目の刀から、三尺近くある長刀まで、五振りが並べてある。ここからひたすら抜き付けと納刀の稽古が始まった。
最初は真ん中の二尺五寸からはじめて、いったん長い刀まで遣う。次は徐々に短い刀に移っていき、二尺一寸で稽古した。そしてまた二尺五寸から長刀へと。
これまで居合の稽古をしたことはなかったから、少しは時間がかかったが、最初のぎこちなさは徐々に消えていき、長さに関わらず滑らかに、高速の抜き打ちが放てるようになった。
そして最後の日。空が白んでくる頃に、師匠が言う。
「相手が抜き放っていて、自己が居合の場合は、鞘の内に刀がある故、一見状況としては不利なように見えるが、相手の刀は見えており、自己の刀は形を見せていない。その時、相手は陽で自己は陰だ。相手が斬りつけると、それは陽から陰に変わる。そうすると、今度は鞘の内にある刀が陰から陽に変わるのだ。これを後の先といい、鞘の内という」
「分かるようで分からん話ですな。要は、居合によって間合を隠せることの有利さを活かして、相手の初発を躱すことでできる隙にぶち込めということで良いのですか」
「まったく、乱暴なやつだ」
木刀を以て、師匠が打ちかかる。俺が抜き打つ。その呼吸を理解しろということだろう。何度か繰り返すと、意味が分かった。
「そうだ」
師匠は満足そうにいい、手を振って母屋に下がっていく。これで終わったということなのだろう。
俺は、道場のろうそくを片付け、立膝で座って一人瞑想している。師匠は伝授を始める前に、その内容を人に漏らさぬことを俺に誓わせた。秘伝だ、一子相伝だ、お前をいつか守る技となるはずだ、と笑いながら言った。一子相伝は笑いごとなのか。そして本伝と全くかかわりのないこの秘伝は何なのだ。
後の先、は確かに得心がいったが、しかし心得や呼吸という意味では、本伝でも似たようなものはあったと思う。正直なところ、技やその呼吸は会得したが、意味が分からんままであった。
とは言え、秘伝とはそんなものなのかも知れぬ。以前師匠が言った通り、あると思えばある、ないと思えばない。剣術とは、形があるようでないものだ。そう理解しておくしかない。
この時の俺は、そう自分を納得させ、瞑想をやめにした。
皆伝: 流派に伝わる技すべてを身に着けたということ。「免許皆伝」の皆伝
調子: タイミング
一尺: 30センチくらい
居合: 鞘にある状態から抜き付ける技や流派の総称、抜刀術
潔斎: 身を清めること
本伝: 流派に過去から伝わる技、秘伝(奥伝)の対照