父様、いつまで回想に耽ってらっしゃるので?もう九話ですよ?
あの時俺は、山の中でふらふらと彷徨っていた。碧ノ國から翠ノ國は思ったよりもずっと遠かった。もしかすると、何処かで空路を間違えたのかもしれない。数年前不眠不休で飛び続け、何度も死にかけた。でも、海の上で死ぬ訳にはいかなかった。深い深い海の中で死んでは生き返り、死んでは生き返りしていては、蘇生が追いつかないからだ。死ぬことも出来ないこの身では、勿論生き地獄だろう。
そして、漸く辿り着いた陸地は山に囲まれていた。腹が減った、眠い、辛いとしか考えることは出来なかった。二度目の地獄だった。少しでも気を抜けば、山犬や猪に喰われるだろう。かあ、かあと震える声で悲鳴を上げて見ても、勿論助けが来る見込みは無いだろう。そう、思っていた。然し、その時がさりと茂みから音がした。大きな、気配。毛むくじゃらな身体。嗚呼、これは熊だろうか。もう駄目だ...俺は、優しく何かに抱き上げられる感覚と共に、眠りに堕ちた。
目が覚めると、そこは暗い洞窟の様な所だった。ぱちぱちと燃える薪が、海風で凍った俺の翼を暖めてくれていた様だ。少し目線を上げると、そこには毛むくじゃらの熊...ではなく、熊の毛皮を被った不思議な服装の男がいた。男は山伏らしく、翼の生えた俺のことを天狗だと思ったらしい。天狗が何なのかは分からなかったが、どうやら妖怪の類いの様だ。山伏は、俺が天狗では無い事を見てとると、暫く考え込んだ。そして、着いてこい、と只それだけ言われた。
そこからは、また地獄が幕を開けた。山伏は、昼間は俺のことをこき使い、夜は俺に稽古を付けた。親父のお陰で骨が粉砕することまでは無かったが、身体に叩き込む様に体術を教えられた。山の歩き方、泳ぎ方、妖怪の倒し方、精神統一の大切さ、人との繋がり、食べられる野菜や毒の作り方まで教わった。そんな山伏を、俺はいつの間にか師匠と慕い敬っていた。
だが、そんな師匠との日々も50年程で終わった。師匠が亡くなったのだ。師匠は逝く直前、畏山へ行け、と俺に道を示してくれた。最期まで師匠は俺の名前も、素性も聞かなかった。俺は、凡そ千年振りに泣いた。一晩中泣いて、泣いた。溢れ出す雫が、止まらなかった。
涙も枯れた俺は、師匠の言う通りに妖怪の山へ向かった。畏山は、ありとあらゆる妖怪の巣窟だった。俺は、毎朝毎晩土下座を百日続け、畏山の妖怪の下っ端となった。そして、そこで片端から強い妖怪に弟子入りをし、妖術を学んだ。幸いな事に、俺の中のカラスの血は翠ノ國の八咫烏の血を引いていた(畏山一の鴉天狗様曰く)様で、妖術はするすると身に付いていった。そうして俺は、八百年掛かって漸く畏山の頂点に立つことが出来た。そしてある晩またふと夜空を見上げると、大きな満月が俺を照らしていた。