盗人イノセンス
夜の九時過ぎ。僕は憂鬱な気分で机に向かっていた。明日は中学校に入って、初めてのテストがあるからだ。
お母さんは「卓は頭のいい子だから、お勉強なんて中学生になってからで大丈夫なのよ」なんて言ってたけど、あんまり自信ないなあ。僕は小学校で全然勉強ができなかったのに、なんでも都合よく考えちゃうんだからなあ。
僕がそんなことを考えていると、部屋に備え付けられたベランダから小さな物音が聞こえた。そちらに目を向けても、カーテンのせいでなんにも見えない。
鳥? 猫? まさかこんな早くに泥棒でもないだろう。
続いて、植木鉢が倒れる音がして、瞬時に僕の体は強張った。
「たっ! いたっ! ううぅ……」
声だ! 声がした! 人だ! 人がいる!
僕はドキドキしながら、思い切ってカーテンを開けた。
ツインテールの女の子が、足を抑えていた。子供っぽい、薄いピンク色のパジャマを着ているけど、僕と同い年ぐらいに見える。
つぶらな瞳だけを寂しそうにこちらに向けている様子は、さながら、雨の中、段ボールに入れられて震えている子猫のようだ。
どうしよう? 女の子だ。可愛いけど、なんで急にベランダに? 空から降ってきたのかな。
僕が困惑していると、彼女は窓を開けて、靴を脱いで上がりこんできた。
「おじゃまします。あの、泥棒に、来たの……」
僕はびびったが、ここで動揺したところを見せては器の小さい男だと思われてしまう。
「そうなんだ、いらっしゃい。でも、泥棒はこっそりやらなくちゃだめなんだよ」
僕はここぞとばかりに知識を披露してみせた。
「あらら、ありがとう。初めてだからうっかりしちゃって……」
彼女は恥ずかしそうに笑う。
「いやいや、このぐらいは常識だよ」
僕はこんな風に女の子と話すのは初めてだけど、ついつい得意になってしまった。
「あ、挨拶が遅れてごめんなさい。わたしは真田亜美。住んでるところは――」
「ちょ、ちょっと待った! 泥棒さんは自己紹介しないほうがいいんだよ」
「あらら、またうっかり……」
「ううん、初めてなんだから仕方ないよ。そのうち慣れるから大丈夫」
僕も前科なんて全く無いけれど、ついつい先輩ぶってしまった。
「亜美ちゃん、ここにはどうやって来たの?」
「うん、あれだよ」
亜美ちゃんが指さした先を見ると、植木鉢の割れているベランダにロープが落ちていた。ロープの先には三叉の金具が付いている。
おっと、この子は思ったよりも本格的だぞ。
「うん、亜美ちゃん。君はなかなかいい道具を使っているみたいじゃないか。でもさ、ちょっと時間が早すぎるかな。泥棒はみんなが寝ちゃってからの方がいいんだよ」
「んー、あんまり遅くなるとわたしも眠くなっちゃうから……。それに、他にも道具を準備してきたの」
亜美ちゃんはそう言うと、得意な顔でパジャマのポケットから青いハンカチを取り出した。
「なにそれ?」
「お薬が染み込んでるの」
「どんなお薬?」
「ふふふ、わたしが頑張って作ったお薬だよ」
「おおー! すごいねえ! ねえ、どんな効果?」
僕はわくわくしてきた。
「なんと、嗅がせた相手のちょっと前の記憶をふっとばすことができるのだー」
「すごい! すごいよ! ノーベル賞物だよ!」
「しかも、なんと! ちょっとした睡眠薬的な効果もあるのだー」
「すごい! すごいよ! 泥棒さんの強い味方だね! どうやって作ったの?」
「なんと、覚えてないのだー」
「わあ、きっとできた後に嗅いだからその記憶が飛んじゃったんだね!」
「えへへ、たくさん褒めてくれてありがとう。でも、どんな時に使えばいいかわかんないんだよ。せっかくうまく作れたのにさ」
亜美ちゃんは少し寂しそうな顔をした。
僕はすぐに名案を思い付いたので、それを教えてあげることにする。
「きっと、泥棒してるのを見られちゃった後とかに使えばいいんじゃないかなあ!」
「あー、そっかあ!」
僕は少し得意になって、亜美ちゃんに親指を立てて見せた。
亜美ちゃんは、何も言わずに、僕の顔を無表情に見つめてきた。
「泥棒を見られちゃった時……」
亜美ちゃんの目が、光った。
僕は「やられる」と、悟った。
亜美ちゃんは素早い動きで右手にハンカチを巻きつけると、僕の鼻に掌底突きをかましてきた。
僕は派手に吹っ飛び、壁にぶつかった。
鼻血がダラダラ出てきたけど、意識はあった。
「は……ひ、ひどいよ、亜美ちゃん」
「ご、ごめんね。わたしったらまたうっかり……。でも、なんで薬の効き目が無いんだろ?」
それは、すごいスピードで吹っ飛ばされたからだと思う。鼻血がすぐに鼻をふさいだせいかも……。
僕が顎をがくがくしながらそんなことを考えていると、亜美ちゃんはハンカチの薬を確認するために、眉間にしわを寄せながらハンカチの匂いを嗅いでいた。
そして、ツインテールの髪を左右に振って、そのまま床に崩れ落ちた。
「……えらいこっちゃ」
僕はすぐに駆けよって、肩を揺すってみた。亜美ちゃんのピンクのパジャマに僕の鼻血がポタポタ落ちる。
亜美ちゃんはゆっくり目を開けて、そして叫んだ。
「きゃあああああああああ!」
僕がその大音響にびっくりしていると、階段からだかだかだかだかと足音が聞こえてくる。
「卓!?」
ドアを開けたお母さんは、鼻血を出している僕を見て、半泣きの亜美ちゃんを見て、パジャマにたくさんついた血を見て、自分の顔を青ざめさせてから、言った。
「あらあら、お友達が来ていたのね。ごゆっくり、ほほほ」
そう言ってドアを閉めた。お母さんはなんでも都合よく考えちゃうのだ。助かったけど。
「あ、あれ、わたし……。あなたは誰?」
「……えらいこっちゃ」
僕は、これまでの事を一から説明してあげた。幸い、泥棒に行こうと家を出たところまでは覚えていたようで、素直に信じてくれたようだ。
「それにしても、どうして、泥棒になろうとしたのさ?」
「なろうとしたんじゃないよ、泥棒だもん!」
「うーん……じゃあ、どうして泥棒になったのさ?」
「うち、パパとママが厳しいの」
亜美ちゃんは寂しそうに目を伏せた。
「いつも塾に行ったり、習い事したりして頑張ってるのに、いつも怒るの。だから、もうぐれてやることにしたの」
「でも、心配してるんじゃないの?」
「いいの、きっと私のことなんて、なんとも思ってないから」
亜美ちゃんは、そう言うと泣きだしてしまった。その姿を見て、僕は決心した。
「世の中には、ひどい親がいるんだね。よし! 僕も手伝うよ。亜美ちゃんを世界一の大泥棒にしてあげる! 亜美ちゃんのパパとママが世間に顔向けできなくなるぐらい立派にしてあげる!」
僕はそう叫ぶと、亜美ちゃんの手を引いて部屋から飛び出した。
階段を駆け下りてから、僕も道具を準備する必要があることに気づく。亜美ちゃんを玄関で待たせて、台所からぎらぎらの刺身包丁を持って戻ってきた。
「ちょっと銀行襲ってくるね!」
僕はそう叫ぶと、家を飛び出した。
ひっそりした夜の住宅街は、どこか神秘的な空気に感じられる。ううん、きっと僕の崇高な決意がそう感じさせているんだよ。
僕が先を歩くと、亜美ちゃんも裸足でよたよたと後をついてきた。
家を出て、少し歩いたところで、亜美ちゃんの足が止まった。
僕達の前から、二人の中年夫婦と見られる男女が歩いてきたのだ。
もしかして、この夫婦から金を巻き上げようってことかな? 亜美ちゃん、お主も悪よのう。
僕が含み笑いをしながらその夫婦を見ると、恐怖の為か泣き出しそうな顔をしている。
「亜美……」
妻と思われる方が亜美ちゃんの名前を呼んだ。
「パパ……ママー!」
亜美ちゃんはダッシュで夫婦の方に走って行って、ママさんらしき人に抱きつく。
「ごめんね、もう週七で塾に通わせたりしないわ! 週六にする!」
ママさんらしき人が涙声で叫ぶ。
「パパも毎日道場に通わせたりしないよ! 山籠りは月三回に減らすから!」
それってどんな生活なんだろう……。
「いいの……? ごめんね、ありがとー!」
亜美ちゃんは、ママさんの腕の中で大粒の涙をこぼしていた。
「ところで、あちらの鼻に赤いティッシュを詰めながら包丁を持った危ない奴は?」
パパさんが僕を睨みつけてきた。僕はすかさずおしっこを漏らす。亜美ちゃんは、泣きながら答えた。
「うん、いろいろ教えてくれた人。ちょっと変だけど、悪い人じゃないよ」
亜美ちゃんはポケットからハンカチを出して涙を拭おうとする。
あ、その青いハンカチは――!
「わたしに、泥棒のやり方とか、いろいろ……くー、くー」
ツインテールの髪を左右に揺らして、ママに抱きつく形で眠ってしまった。
「おまえ、亜美に何吹き込んだんだ!」
やばい、早く亜美ちゃんにちゃんと説明してもらわないと、殺される!
僕は睨みつけて来るパパさんの横を通って、すたすたと亜美ちゃんに近づくと、ママさんの腕の中にいる彼女の肩を揺らして見た。僕は一縷の望みにかけたのだ。亜美ちゃんの薬が不完全であることを願った。いや、たとえ記憶が無くても、二人の絆は残っているはずだよ!
亜美ちゃんはすぐに目を覚ましてくれた。
「きゃああああああああー!」
「落ち着いて、僕だよ!」
「知らない! 変態! 変態! 変態!!」
「おい! 君、名前と家の電話番号は?」
パパさんが殺戮的な目を僕に向けてきた。僕は大人しくそれに答える。
パパさんはすぐに携帯で電話し始めた。
「あーもしもし、卓君のお母さんですか? え、ああ……そうですか、失礼しました」
しかし、すぐに通話をやめて、僕に詰め寄ってきた。
「正直に言いなさい! 『うちに卓なんて子はいない』って言われたぞ!」
そうだった。お母さんはなんでも都合よく考えてしまうのだ。
「あは、あははは」
僕にぬくもりを伝えてくれるのは、少しの涙と大量のおしっこだけだった。