不可認
何故触れてきたのだろう。
混乱した頭では思考ばかりがぐるぐる巡り、体は動いてくれなかった。
私の存在は彼の一族のためにあった。
母も祖母も、私の一家の女性は彼らのために生きて働いていると言って過言ではなかった。
そして私も。
彼に、そして彼より前の族長に自分の全てを尽くしてついていくのは嫌ではない。
むしろ、それが当たり前で喜ばしいとさえ思っている。
持って生まれた大きすぎるこの力も、彼の側でなら制御される。
彼に使ってもらえば暴走もしないしもて余して生き辛くなることもない。
「私の恋人になりませんか」
初めて会った時から、いや、話を聞いた時から、彼のことは凄い人だと認識していた。
若い身で一族を背負い先導していく。
その肩に乗るものは100人を超える身内の命に等しい。
過酷で、重すぎるとも思える責。
見た目お世辞にもたくましいとは言えない細さの上に、感情のこもらない笑みを浮かべた彼が、私同様生まれた瞬間に負わされたものは、本来その年齢の人間が負えるようなものではなかった。
だから、感覚が狂っていたのかもしれない。
周囲に若い女性もおらず、日々の仕事に疲れたが故の妄言、暴言。
私に向けられたそんな言葉は、すぐに何かを返せるほど軽くはなかった。
冗談ではない雰囲気に、二つ返事もできないような内容。
返事に窮した私が咄嗟に出した声は震えていたかもしれない。
「それは、私の……力、で?」
とても褒められたものではない。
けれど、それ以外どうしようもなかった。
私のような小娘一人の間違った対応のせいで、一族の長に道を踏み外させてはならない。
彼は少し笑った。
「その方が納得できますか。確かに私はそんな性格なのかもしれませんね」
喉の奥で可笑しそうに音を出す彼が本気なのかどうか図りかねる。
こういう人だ。
使えるかどうかを優先させ、感情を二の次にする。
彼にとって全ての物、全ての人は利用できるかできないかの2項目で判断される。
だから尚更、恋愛などという事柄が嘘めいてくるのだ。
「もし、あなたの力が必要だからという理由なら。いつ何時でも側に置く口実としてだとしたら、どう返事をしますか?」
いつもと変わらない。
試すような言い方をする。
だがあちらがそういう風に形容するならば、その表現をとるならば、こちらの答えも決まっていた。
人のことが言えないほど歪んでいるとは思った。
「もちろん、私はあなたのためにあります」
結局そういうことだったのだ。
彼は私の力を使うことを覚え、私の利用価値を知った。
もっと言えば便利さを。
私は彼の一族の族長、つまり今は彼に仕えているけれど、いつだって側に伴しているわけではなかった。
だから、更に私を使いやすい状況に置けるように、業務という範囲を越えて私を利用できるように「恋人」という立場を使ったのだと。
そう思った。
それ故に現在が信じられない。
形だけの恋人なら、ここまで近付く必要はないのではないか。
今までほとんど何もなかった。
恋人らしいことは何も。
周りの人間に関係を伝えることもなく、ただ隣に立っていた。
なのに今は、流れるように抵抗できないまま彼の腕の中にいる。
絶対にばれたくはないけれど、正直心臓がうるさい。
ここまで密着していると既に知られているのではと不安になる。
最初に後ろから手を握られた瞬間は特に何も思わなかった。
普段からスキンシップだけは何故か多い彼だ。
少しだけ甘えたがりなのかもしれないし、そんな部分があることにむしろ安心も感じた。
甘えていい。
だから黙っておとなしくしていた。
いつもと違ったのはそこからで、すぐ背後で衣擦れの音がしたと思ったら背中に熱。
間もなく腕が肩に回されて首に落ち着いた。
あまりにも突然に、しかも慣れたように素早くやられたので、最初は本気で捕まったと思った。
身動きできないのは事実なのだが。
そしてその状態から沈黙のまま今に至る。
何か喋ってくれないと、混乱が増すばかりで解決のしようもない。
「あ、あの……どうされたんですか?」
仕方なく声をかけると、少し動いて腕をゆるめてから、彼は小さく息をついた。
そこで吹かれると耳にかかり、顔に熱が集まるのがわかってすごく困るのだが。
「こうされるのは、不愉快ですか?」
抑揚のない声にも慣れたけれど、その声は普段のそれとは何か違うように思えた。
「不愉快だなんてそんな」
「そうですか。なら、もう少しこのままで」
はっきりと希望を示されてしまえば、私に逆らう選択肢などない。
振り向きかけていた顔を再び前に戻すことで返事とする。
一瞬ゆるめられた腕はまたやんわりと力がこもる。
改めて落ち着いてみると、彼の腕はぎこちなさを含んでいるかもしれない。
力加減に苦労しているように強まったり弱まったりするのが感じられる。
人と触れあった経験が乏しいであろう族長様は、もしかしたら自分でも戸惑っているのか。
逡巡の後、首に回された腕に手を添えてみた。
分かりやすく身動ぎする彼。
しばらく躊躇いらしき静寂を挟んで自重の響きを持った声が聞こえた。
「くだらないと思っていますか」
「……何がでしょう?」
「こんな人間が、一族の長に相応しいなどと思えますか?」
こんな弱音、聞いたこともない。
いつも自信満々に、自分が間違っているだなんて思ってもいないような顔をしているくせに。
「相応しくないだなんて、あるわけがない。現に今もあなたは当主をされています」
珍しく弱気な彼を放っておけるわけがなかった。
公私混同なんてしたくないけれど、これは恐らく勤務時間外だろうとみなして言葉を続ける。
言いたいこともまとまっていない、子供っぽい言い分なのだろうが。
「強がる必要なんてない。私の前でも、他の方の前でも、完璧を演じる必要なんてないんです。こんな人間と仰いましたが、私から見ればあなたは『こんな』と表現されるような人ではないんですから」
自分の言葉に余裕がないのが悔しい。
やはり私はまだまだ未熟で、彼を正しい方へ導くなんてできないのか。
伝えたいことが伝わらない。
自分でも何が言いたいのかわからないのに相手にわかるわけがない。
「自分一人の感情さえ抑制できずに、私利私欲のために前例もないことをするような人間ですよ」
彼は変わらず自虐を紡ぐ。
「私利……?」
「こうしていることです」
そう言いながら肩口に顔を寄せてきた。
だから、非常にまずい。
部屋は暗いから多少は気付かれないだろうが、多分顔が赤くなっている。
仕えている相手に対して一体どういう状況なのか、存在意義を見失いそうになる。
いや、そんな大層なものではない。
「幻滅しましたか?一族のためではなく、私自身のための提案だった。そういうことです」
要するにどういうことなのか。
そういう経験など全くない私にも理解できた。
つまり、自惚れてもいいと。
自分の感情にも目を向けていいと。
代々族長に仕える我が家系で、形だけでも族長と恋仲になった例はなかった。
あちらの一族とて同じこと。
婚約者は常にいても、恋愛とは程遠い。
だから必死に気付かないふりをしていた。
気付いてはいけないことで、私が役目を終えるまで、そして終えた後も隠し続けていかないといけないことだと自分を説得してきた。
何も思ってはいけないのだ。いけなかったのだ。
「私だって……、私だってくだらなくて、今までの伝統を破ってしまった馬鹿な人間ですよ」
彼の腕に触れている指に力をこめる。
僅かに震えているのは、私か、彼か。
そっと彼の腕を解いて抜け出し、向き合って座る。
彼は泣きそうな表情をしていた。
大人びた顔を少しだけ悲しそうに歪ませている。
いつも微笑みという名の無表情に徹していた彼だから、今どれほどの感情を内に潜ませているのか。
「こんな人間に、物好きですね」
普段の彼に負けじと笑ってやれば、彼には伝わったらしい。
悲しげな笑みを消し、一瞬目を伏せた後にこちらを真っ直ぐに見つめてきた。
「改めて、私の恋人になってもらえませんか」
彼の表情は、今まで見てきた中で最高だった。
答えはもちろん、彼の胸に飛び込んでいくことだった。