踊れ、優しい娘よ
その日、ヒメは厄日だったのかもしれない。
昨日の夜から降り続ける雨は止む気配を見せず、湿気のせいでただでさえ多いヒメの髪はモッサリとしていた。
一限目は苦手なバレーボールで、まともにボールを返せず足をひっぱる。
そして極めつけに、昼休みに廊下で滑って転び、咄嗟に腕を伸ばした際に手首を痛めてしまった。
順序が逆ならバレーボールを見学できたのにと、後ろ向きなことまで考えてしまう。
ヒメは痛む左手に憂鬱になりながらも、今日も図書室で時間を潰し、頃合いを見計らって音楽準備室の様子を見ようと前向きに計画を立てる。
しかしそんな計画も、担任に雑用を申し付けられたことにより頓挫してしまった。
「明日の授業に使う模造紙を美術室から取ってきてくれ」
何故手を痛めてあからさまな包帯を巻いているヒメに頼むのか。
そんな抗議もできず大人しく美術室に向かうヒメだったが、今日に限って美術部は休みだったらしく、わざわざ職員室まで鍵を取りに行かなければならなかった。
職員室に行くまでに既に結構な時間が経っており、自分は何をやっているのかと虚しくなってくる。
(あ、虹が出てる)
職員室への道すがら、ふと窓の外を見れば、とっくの昔にあがっていたらしい雨に代わり虹が空に描かれていた。
(虹の曲ってあるのかな。もしあるなら、深海さんに頼んだら弾いてくれるかな)
あれから何度かクランドのピアノを聞く機会に恵まれたが、彼はヒメに「何か好きな曲ある?」と聞くと、すぐにその曲を演奏してくれた。
ピアノなど片手で「ねこふんじゃった」すら弾けないヒメからすれば、頼んだ曲を即興で弾いてしまうクランドは魔法使いみたいに理解不能で凄い人だ。
故にヒメにとって、クランドに曲をリクエストするというのは、マジシャンに手品をねだるのに等しいのかもしれない。
要するに、何だかワクワクして楽しいのだ。
(……はやく届けて音楽準備室行こう)
美術室の鍵をあけると、ヒメはすぐに模造紙を見つける。そうしてようやく音楽準備室に向かおうとした所で、何かおかしい事に気付き動きを止めた。
(……窓が開いてる?)
一つだけ、奥の窓が半開きになり風でカーテンが揺れていた。
誰かが閉め忘れたのだろうかと思ったその時――
「きゃああああ――――ッ!?」
――その窓の方向から女の喉が張り裂けんばかりの悲鳴が響き渡り、ヒメはビクリと体を一度震わせると、その場に硬直してしまった。
(……な、何? 誰か転んだ?)
自分のように誰かこけたのかと思ったが、今の悲鳴はそんな微笑ましいものではない。
命の危機にでも陥ったような、鬼気迫る声だった。
「……」
ゴクリと唾をのみ、ヒメは何故か忍び足で窓へと近寄った。そして恐る恐る窓の外を覗きこめば、地面に一人の女子生徒が倒れているのが目に入る。
周囲には砕けた白い何かの破片。その白い破片にまみれるように倒れふした女子生徒の頭に、僅かに赤い何かが見えた。
「アンタ!? アンタが落としたの!?」
突然声をかけられ、ヒメはまたしても体を震わせた。
見れば倒れた女子生徒のそばに、きつめの化粧が印象的な女子生徒が居た。
その女子生徒はまるで親の敵でも見るように、殺気混じりの目をヒメに向けている。
「何だ! どうした!?」
「その子捕まえて! そいつがミサをやったんだ!」
悲鳴を聞いたらしい人間たちが集まり始め、何やら女子生徒が叫んでいる。
……わけがわからない。
どうやら倒れた女子生徒は誰かのせいでああなったらしく、その下手人にヒメが仕立てあげられようとしている。
何故女子生徒は倒れているのか。
何故化粧のキツい女子生徒は、ヒメを犯人だと決めつけているのか。
分からない。分からないからヒメは動けなかった。
見覚えのある男性教師が自分の手を掴み、何やら詰問してきても、混乱して何もできなかった。
「オイ! 君が落としたのか!?」
「!? ……ぁ……ぅ」
(落とした? 何を?)
それよりも手が痛い。
でもわけがわからなくて、恐くて、ヒメは声が出せなかった。
何も言わないヒメに焦れたのか、男性教師の手の力が強くなる。
(……痛い。
……分からない。
……助けて。
……誰か助けて!)
「離してくれませんか先生。手を痛めてるのくらい、見れば分かるでしょう」
ふっと、冷たいのに温かい声がした。
「……大丈夫か白山?」
いつの間に現れたのか、いつも通りの不貞腐れたような顔をしたクランドが、同じくいつの間にか居た人々から守るように、ヒメをその背で隠していた。
「深海……さん?」
「ん。しばらくそうしとけ。先生は生徒をいじめる前に、警察と救急車呼んでください。あと現場保存。すぐにここと現場から生徒を追い出して立ち入り禁止に」
呆気にとられる周囲を、クランドはテキパキと指示を出して有無を言わさず動かし出す。
状況は相変わらずまったく分からないけれど、百人力な頼れる味方が現れた。
それを認識すると、ヒメは安堵のあまり腰を抜かし、恥も外聞も気にせずクランドの背中に抱きつく。
厄日の最中に訪れた役得は、まったく割に合わないものだった。




