ベートーベンに恋をして
白山ヒメは自分の名前が嫌いだった。
お姫様を連想させる名前に、ヒメは小学生になる頃には負けていた。
自分にはそんな名前は相応しくないと、泣きながら両親に言ったこともある。
彼女の名誉のために言うが、ヒメという少女の容姿は決して醜くはない。
むしろ彼女が微笑む度に、周囲の大人たちは可愛いと褒め称えた。
しかしどうしようもなく無邪気で残酷な子供たちは、特異な彼女の名前をからかい、けなし、容姿を交えて揶揄し、嘲弄した。
それは本心ではないのは周りの大人たちが見れば明らかだったが、幼いヒメにそんな事が分かるはずがない。
結果彼女は自信というものを根こそぎ奪われ、人とまともに話せぬほどに卑屈になった。
さらに家庭の事情も絡まり、ヒメはすっかりオシャレに興味を失った。むしろ忌避したと言っていい。
そんな彼女が、高校の二年生になって知り合ったのが、深海クランドという自分と同じくらい変わった名前の少年だった。
変わった名前だけでなく、無口な性格も似ている。それがクラスメートの認識だったが、ヒメはクランドが自分に似ているとは思えなかった。
彼は強い人だ。他者の評価を気にせず、己の意思を通す孤高の人。
自分のように他者に置いていかれる弱者ではなく、他者を置き去りにする強者。それがヒメのクランドに対する認識だった。
そんなクランドだが、どういうわけかヒメには優しかった。
ぶっきらぼうなのは変わらない。しかしヒメの内心を読んでいるかのように、無口な彼女の思いを捕捉し補足してくれるのだ。
無口なヒメをからかう生徒はいたが、いつだってクランドは彼女を庇い、守ってくれた。
そんなクランドに、ヒメは確かに救われたのだ。
だからヒメは、クランドが好きだった。
自分とは正反対だと思いつつ、その強さと優しさに憧れた。
それが依存でしかないと知りつつも、ヒメはその恋心を大切にしたいと思ったのだ。
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ヒメがクランドのピアノを聞いてから一週間。小さな、しかし幸せな約束をしたヒメだったが、その約束が果たされる機会は一向に訪れなかった。
「ベートーベンの正体は二年の深海クランドである」
そんな噂が流れたせいで、放課後の音楽準備室には野次馬が押し寄せ、それを嫌ったクランドは準備室に鍵をかけてしまったのだ。
ヒメが頼めばクランドは中に入れてくれただろう。しかし無口で大人しいヒメに、そんな勇気があるはずがない。
結果ヒメは、クランドに蟻のようにたかる生徒たちを、指をくわえて見ていることしかできなかった。
ベートーベンの正体を知るのが自分だけなら良かったのに。そんな愚痴みたいな思いを抱えながら。
「うーん。深海くんもある意味凄いね。少しピアノ弾いてやれば人気者になれるチャンスなのに、むしろ『邪魔だてめえら』みたいなオーラ出てるし」
噂好きなクラスメート……恐らくはベートーベンの正体を広めたのであろう張本人が、無責任にそんな事を言う。
そんなアキを長い前髪の隙間から睨み付けると、ヒメはクランドへと視線を向けた。
頬杖をつき、目を閉じて周囲を遮断しているクランド。そんなクランドに必死に話しかけているのは、吹奏楽部の女子生徒だ。
この学園の吹奏楽部は中々レベルが高いらしい。恐らくは、音楽センスの飛び抜けているのに帰宅部なクランドを勧誘に来たのだろう。
今話しかけているのは平部員だが、昨日までは三年の部長直々に勧誘に来ていた。
今日は都合がつかなかったのか、単に部長は諦めたのか。このまま諦めてくれれば良いのにと、ヒメは嫉妬混じりに思う。
「しかし深海くんがピアノ弾くなんて、まったく知らなかったなあ。中学でも知られてなかったみたいだし、秘密にしてたのかな。でも何で今回はばらしちゃったんだろ?」
ヒメに返答は求めてはいないのであろう、アキの呟き。それを聞いたヒメは、ある可能性に気付き、血の気が引くような感覚に襲われた。
……ヒメが恐がっていたからだ。
「ベートーベンの亡霊」なんてくだらない怪談を恐がってしまったヒメ。そんなヒメを安心させるために、クランドは秘密のはずのそれを暴露した。
もしかしたら考えすぎ、期待しすぎの自惚れかもしれない。
しかしそうだとしたら、クランドにとっても今の状況は予想外だったのかもしれない。噂好きなクラスメートが、まさか自身の噂を無責任に広げるとは思ってなかった。
思えば最初に吹奏楽部の部長が来たとき、クランドはアキを何度か振り返っていた。
あれは恐らく「覚えてろよてめえ」という意味だったのだろう。それに気づくと、ヒメはのんきに事態を眺めているクラスメートが憐れに思えてきた。
「強く……生きてね」
「なんかいきなり白山さんにフラグを立てられた!?」
ボソッと呟いたヒメに、アキが叫びをあげる。
フラグを立てたのは自分ではなくアキ自身だ。そうヒメは内心で抗議した。