私は行く、だがどこへ
ほぼ毎日ヒメにピアノを聞かせているクランド。
たが当然というべきか、彼が練習を終えるまでヒメが残っていることはまず無い。
クランドは放課後になるなり音楽準備室を借りると、吹奏楽部の練習を聞きながらピアノを弾き始める。
そしてグラウンドがライトで照らされるようになっても弾き続け、大会の近い野球部が片付けを始めた頃にようやくしめに入る。
長すぎると思われるかもしれないが、クランド自身はあまり満足はしていない。
クラシックのピアニストならば、三時間の練習ですら少ないと言われている。無論のやり方によっては、練習時間を減らすこともできるだろうが、クランドには師が居ない状態だ。
母の教えを元に続けてはいるが、師が居ないというのは大きい。クランドの練習量の多さは、焦りの表れでもある。
「……」
最後に、日課となっている『悲愴』を弾き始める。
音楽高校に入っていれば。そう思ったことは数知れない。
しかし二年前。『母』を失い『父と母』と暮らし始めたばかりのクランドには、そんな我儘を通す意思も気力も無かった。
音楽で身をたてるなど、並大抵の苦労ではない。巷のピアノ教師レベルでは、収入もたかが知れている。
ピアニストになってみせる。大成してみせるなどと、十四歳の世間知らずの小僧が断言できるはずが無かった。
結局は両親や教師に勧められるままに、自身の学力に見あった進学校へと入学した。
「……はぁ」
ピアノを弾き終えると、クランドは鍵盤から手を離し吐息をつく。
――パチパチパチパチ
「!?」
しかし曲が終わるのを見計らったように、それほど広くない音楽準備室に手を叩く音が響き渡り、クランドは椅子を蹴倒す勢いで立ち上がった。
「あら、ごめんなさい。驚かせたかしら?」
歌うような声だった。
可笑しそうに口元を押さえて佇んでいたのは、肩甲骨の辺りまで伸びた亜麻色の髪が印象的な女性。
教師にしては若すぎて、仕立てたばかりらしいスーツと合わさって、大学を卒業したばかりの社会人に見える。
誰だろうかとクランドが訝しんでいると、女性は流れるような動作で頭を下げ――
「こんばんはベートーベンさん。私は……モーツァルトかしら?」
――そんな挨拶をした。
「……名乗る気は無いと」
「あら、つれない反応ね。まあ明日になれば分かるから、お楽しみということにしておいて」
明日分かるというなら、新しい教師か教育実習生か。
そういえばホームルームで教育実習生の話をしていたと思いだし、クランドは納得した。
「トルコ行進曲に惹かれてつい拝聴しちゃったわ。モーツァルトの曲がそれだけだったのは残念だったけど、高校生とは思えない素晴らしい演奏だったわ」
「ありがとうございます」
自称するだけありモーツァルトが好きらしい女性の賛辞に、クランドは素直に礼を言った。
女性の話し方からして、間違いなく音楽に造詣が深い、恐らくは音楽に携わる人間だろうと確信する。
話すように歌うのではなく、歌うように話す。
余程長く訓練をしていなければできることではない。体そのものが音楽に適応している、紛うことなき音楽家だ。
「最初の方以外はスローテンポな曲が多かったわね。貴方くらいの歳だと、テンポの速い曲を弾きたがるものだけど」
「……アダージョが好きなので」
「あら珍しい」
確かにクランドも、昔はテンポの速い曲をがむしゃらに弾いていた。
技術を見るならば、テンポの速い曲というのは素人にも分かりやすい。いかに速く正確に弾くか。ただそれだけ。
そしてクランドは、ただそれだけの事をつまらないと思い、テンポの遅い曲を、一音一音を大切に、愛でるように弾くことを好むようになった。
しかしきっとその考えも、発展途上の子供の発想なのだろうなと、クランドは冷めた思考で考えている。
「……うん。面白いわ貴方。まさかこんなところでこんな子に会えるなんて、人生どう転ぶか分からないわね」
こんなとはどういう意味かと気になったが、女性はそんなクランドの内心を知らず楽しそうに笑う。
「あら、これ以上引き留めると時間的にまずいわね。じゃあ『また明日』ね。ベートーベンさん」
そう言うと、自称モーツァルトな女性は、軽やかな足取りで音楽準備室から出ていった。




