モーツァルトの子守唄
「おかしい」
梅雨もあけ暑くなり始めた初夏の陽気。クランドが登校するなり、教室の扉の前で待ち構えていたアキが言った。
「……頭が?」
「違うよ!? 深海くん一言一言が重いんだから、暴言は控えてくれないかな!?」
いつものように始まった漫才に、クラスメートはまたかと呆れた。
無愛想なようでいて付き合いの良いクランドに、アキが絡むのはもはや日常となっている。
「深海くんの経歴! ピアノ弾くって聞いたからさ、コンクールとか調べたんだ。凄いね、コンクール出れば優勝ばっかじゃん」
「……よく調べたな」
アキの言葉に教室がどよめき、クランドは呆れた視線を向ける。
ヒメが長い前髪の奥から、尊敬の目を向けているのには悪い気はしない。しかしその他大勢に煩わされるのは大いに悪い。
「でさ、おかしいのはその前。二年以上前のコンクールには、まったく深海くんの名前が見あたらなかったんだよ。入賞できなかったとは思えないし、何で?」
アキの問いに、クランドはいつも通りのポーカーフェイスを装いながら、余計なことをと内心で毒づいた。
名前が見当たらないのは当然だ。二年以上前の深海クランドが、コンクールに出るなど不可能だったのだから。
「企業秘密だ」
「企業!?」
かといって、それは軽々しく話せる事情ではない。
冗談めかした態度(実際にはいつも通り)で流すと、クランドはアキを放置して自分の席につく。そして背後からのヒメの視線を感じながら、どうしたものかと悩む。
少し調べれば、クランドの過去がおかしい事くらい分かるはずだ。アキが騒ぎ出す前に、釘をさすべきだろうか。
「……」
その前に、後ろを見なくても分かるくらい興味津々なヒメに話すべきかもしれない。
面倒な事にならなければいいなと、クランドは他人事のように思った。
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ベートーベンの曲を好み、何の因果かあだ名までベートーベンとなりかけているクランドだが、実はモーツァルトの曲はあまり好きではない。
嫌いというわけではないが、何となく肌に合わないのだ。クランド自身の性格と嗜好が、モーツァルトとは正反対なためかもしれない。
そんなクランドだが、モーツァルトの曲全てが苦手というわけではない。中でも気に入っているのは、トルコの軍音楽を参考にしたとされる曲だ。
世話しなく駆け回るような右手のメロディーに、打楽器を思わせる左手の連打を重ねる。
「……トルコ行進曲?」
演奏を終えると、ただ一人の聴衆であるヒメが拍手をしながら呟いた。
さすがに知っていたかと、クランドも笑う。
「モーツァルト作曲。ピアノソナタ第十一番の第三楽章だな」
「……第一と第二があるんだ」
「ある……が、この曲は第三楽章単独で演奏されることが多いな。『トルコ行進曲』という俗称も、第三楽章だけを指す」
「……人気があるから?」
「多分な」
小首を傾げるヒメに、クランドは苦笑しながら答える。
「……」
会話が途切れる。
元々ヒメは無口だし、クランドも口数の多い方ではないので沈黙は珍しいものではない。
しかしいつもと違うのは、ヒメが何かを聞きたそうだということか。
否。ヒメは他人の事情に首を突っ込んでくるような性格ではない。聞きたそうに見えるのは、クランドが聞いてほしいからかもしれない。
「……俺の母親は『月影シオン』て名前でな、ピアニストとしてはかなり有名で、音楽に携わる者なら知らぬものはないって人だったらしい」
唐突な話題に、ヒメは少し驚いた様子を見せたが、すぐに真剣な面持ちで耳を傾けてくれた。
「そんな人だから、息子の俺も相当期待された。その期待には応えられた……そう思うけど、実際は分からない。今だって『深海クランド』よりも『月影シオンの息子』の方が知名度は高いだろうしな」
それが悔しいとは思わない。単に母が凄すぎて、自分はその影を出られるほどの力が無いだけ。
いつか越えたい壁ではあるが、その壁が高すぎるなどと情けない愚痴を漏らす気など無いのだ。
「……二年前までは……コンクールに?」
「出てた。ただ二年前までは母さんと同じ『月影』を名乗ってただけだ」
そうクランドが言うと、ヒメは納得したようだった。
クランドは嘘は言っていない。だが本当の事も言っていない。
もっともクランドが言わなかった事実など、少し調べればあっさりと分かることだ。
――ピアノ界の牽引役とすら言われた月影シオンが、二年前に亡くなった事など。
 




