小さな恋の序章
「何故?」
そうアナタは言った。
何に対して?
名を偽ったこと?
姿を偽ったこと?
過去を偽ったこと?
未来を偽ったこと?
それとも、アナタを騙したこと?
「どうして?」
もう一度アナタは言った。
もういいでしょう。
アナタには理解できない。
アナタの期待には応えられない。
……それでも。
「ごめんなさい」
そう一言だけ呟いた。
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七不思議って知ってるかい?
夜中に走る二宮金次郎に骨格標本。花子さんにぶきみちゃんに赤マント。
数えるたびに段数の変わる階段に、廊下を走る巨大な影。
どれも眉唾だって? ならこれはどうだ、ベートーベンの亡霊。なんたってこれは何人も体験した実話だ。
部活動の時間も終わり静寂に包まれた校舎。そんな校舎に響き渡るピアノの音色。悲しげな響きの正体を確かめようにも、ピアノがある音楽準備室の扉は開かない。
重々しい音色はかのルードヴィッヒ ・ヴァン・ベートーベンの産み出した曲ばかり。なんの未練があるのか、胸に迫る演奏に聞いたものは魂をとらわれるとすら言われている。
だから君がベートーベンの素晴らしい演奏を耳にしても、決して聞き惚れてはいけない。
きっとベートーベンは君の魂を手放そうとはしないから。
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「くだらねー」
昼休み。昼食のハムカツサンドに噛みつきながら、深海クランドは間延びした声で言った。
「くだらねーって……ホントだよ! 今回はホントに目撃談ありだよ!?」
対する男子生徒、須川アキは机を叩きながら抗議する。
少しクセのついた金色の髪も、優男な目鼻立ちも、思春期の女子たちが見とれる程度には彼に魅力を与えていたが、生憎と今アキが対峙している男子には何の働きもはたさなかった。
「大体その話の肝は何なんだ。驚けば良いのか恐がればいいのか喜べばいいのか」
不機嫌そうに目を細め、クランドは後ろに流した黒髪を撫で付ける。
その様にアキは少し怯みながら、恐る恐るクランドの背後を指さす。
「いや、深海くんが恐がるとは思ってないけど……後ろおもいっきり恐がってる」
言われてクランドが振り向けば、おかっぱみたいな髪型の小柄な女子生徒――白山ヒメが、文庫本に顔を隠しながら震えていた。
先ほどの話のどこが恐いかクランドには疑問だったが、彼女にとっては体調に不良をきたす程度には恐かったらしい。
小動物のような姿には和むが、ここまで震えて大丈夫かと純粋に心配になってくる。
「大丈夫か白山?」
「……う……ん」
ダメらしい。
クランドの問いにヒメは頷いて返したが、それを見て「大丈夫」と判断する人間が居たら節穴に違いない。
あるいはこの臆病な兎を思わせる姿に、何の感情もわかない鬼畜だろう。
「ベートーベンなら気にするな。嘘だから」
「いや嘘じゃないよ!? ちゃんと目撃談が……」
「嘘だ。俺だし」
あくまでも自身の情報の正しさを主張するアキに、クランドはバッサリと切り捨てた。
一方言われたアキは、クランドの言葉の意味が分からず首をかしげる。
「……まさか噂の発生源深海くん? いや、白山さんを安心させたいのは分かるけど、それは無理あるよ」
「違う。俺がベートーベンだ」
「助けて! 深海くんが何言ってるか分からない!?」
叫ぶアキに、クラスメートは生暖かい視線を向ける。
クランドを弄るつもりだったアキが逆に弄られる。二年に上がり今のクラスになってからは、日常的に見られる光景であり、刺激に飢えた生徒たちのささやかな娯楽であったりする。
「深海さんが……弾いてる?」
不意に、教室の喧騒にかき消されそうな小さな声でヒメが言った。
それを辛うじて聞き取ったアキは、すぐには意味を理解できず首をひねる。しかし数秒かけてその意味を噛み砕くと、目を見開いてクランドを見た。
「深海くんがベートーベンの正体!? 何で夜の学校でピアノ弾いてんの!?」
「家の防音が不十分で近所から苦情がきた」
「原因じゃなくて理由!?」
「……?」
「だからもう……うがああああ!?」
何を言われてるのか分かりませんとばかりに眉をしかめるクランド。そんなクランドに、アキは言葉にならない叫びをあげて悶える。
「ピアノ……弾けるの?」
「弾ける。夕方に弾いてるのは聞いたことあるだろ」
「うん……上手だった」
「……」
ヒメの質問にはちゃんと返すクランドを見て、イラっとしたアキだったが、仕方ないと自分を納得させる。
似た者同士というか、この二人の会話は必要最小限すぎて割り込みづらい。除け者な気分になるのはアキだけの被害妄想では断じて無いのだ。
「白山さーん。上手いってどのくらい?」
「……」
「黙らないで!? 泣きそうにならないで!? 別に俺責めてるわけじゃないから!?」
アキの質問に何やら悩み、そして上手く言葉にできず涙目になっていくヒメ。
その様子があまりに庇護欲をそそるため、アキは慌ててヒメを労る。
このままではアキは悪者だ。クラスメートから総スカンをくらいかねない。
「深く悩むな。コンクールで優勝できるとか、てきとーに答えとけばいい」
「……コンクールで優勝できるくらい」
「仲良いなおまえらコンチクショー!?」
しばし悩んだ後、クロウドの助言通りに答えるヒメにキレるアキ。
今日も2―Cはいつも通りだった。
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放課後。音楽教師の許可を得て、クランドは準備室に納められたグランドピアノと向き合っていた。
古く調律にも無理がきているピアノだが、音には問題はない。むしろクランドの自宅にある小型のピアノに比べれば上等であり、練習に使うには申し分のない逸品だ。
「……」
一度静かに吐息をつくと、クランドは挑みかかるようにピアノに指を叩きつける。
奏でるはベートーベンの数あるピアノソナタの一つ。
変化する強風の如き第一楽章。目まぐるしく変化する速さの中で、なお乱れぬテンポを要求される。
クランドにとってそれは意識せずとも再現できる技術だ。しかし技術だけで再現できるものは、ただの連続する音の羅列にすぎない。
ベートーベンという音楽家は「苦悩」と共にあった。
難聴という音楽家にとって致命的とすら言える病は、彼を苛み遺書をしたためるまでに追い詰めた。
しかしそれでもベートーベンは曲を産み出し続けた。自らの苦悩と救いを表すかのように。
「……」
第二楽章。
第一楽章とは打って変わって抑えられた旋律は、嵐の前の静けさを思わせる。
しかしそれは決して平穏なものではない。嵐の中にある静寂という名の力。退屈とすら思わせないエネルギーを秘めた律動だ。
「……」
一つ息を吐き、踊る指に意思を通す。
第三楽章。静寂を破り音が走り出す。
疾走する馬の蹄をイメージさせるそれは、しかし単調なものではない。不安、苦悩、葛藤。ベートーベンの思いの奔流とも言える熱を吐き出すように、クランドの指は鍵盤の上を走る。
しかしふと上げた視線に異物を確認して、クランドは集中を切らし、鍵盤を舞台に踊っていた指は無様にけつまづいた。
「あ……ご、ごめんなさい」
異物……いつの間にか室内に居たヒメが、萎縮し謝罪した。
それにクランドは一つ吐息をつくと、いつも通りの無愛想な声で言う。
「いいよ。俺が勝手に止めた」
「……そうなの? ……最後の曲って『テンペスト』?」
「いや、全部テンペスト」
クランドの答えにヒメは「あれ?」と首をひねる。その様子にクランドは内心で苦笑しつつ説明する。
「ピアノソナタ第十七番『テンペスト』 白山が聞いたことがあるのは、一番有名な第三楽章。その前に弾いてたのは、第一、第二楽章」
「……何で三番だけ有名?」
「さあ。みんな第三楽章が好きだからじゃないか。『月光』だってほとんどの人は第一楽章しか知らないだろ。第二楽章とかはまったく印象の違う曲なんだけどな」
そう言って実際に弾いて聞かせれば、ヒメは目を丸くする。
「……別の曲みたい。面白いね」
「面白いと思えるなら、白山は音楽向いてるかもな」
「……」
ふいに黙ってしまったヒメに、クランドは一度視線を向けると無言で待つ。
人のことは言えないが、この少女は無口だ。急かしても焦って余計に言葉が出なくなるので、忍耐強く待ってあげるのが一番だと短い付き合いでも理解している。
「また……聞きに来てもいい?」
「どうぞ」
「……うん」
短くクランドが答えると、ヒメははにかむように笑った。