02 山中
山道を歩く。周囲を警戒しながら、頭を働かせる。
家族の事を考えるのはやめた。感情を乱されてはただでさえ低い生存の見込みが一層低くなる。贅沢な悩みは、生き延びて人心地ついてからだ。死ねば何もできない。菩提を弔う事も、何も。
何故村が襲撃を受けたのか?
分からない。社会情勢のみならず、歴史も地理さえも把握していない。この村と、隣村。これが九歳児の世界の全てである。
収穫物は一度村長宅へ預けられ、必要な分を除いて隣村へ運ばれる。隣村の人間が商人を介して換金し、税を金銭もしくは割符の形で納める。手間賃を除いた余りが金銭の形で村に戻ってくる。
外部との交流は殆どが隣村を介して行われる。隣村自体人の出入りの多い村でもなく、下手な行動をすればすぐにでも自分の家族に情報が行く。両親存命中の隣村での情報収集の成果は、芳しいものではなかった。もう気にする必用も無くなってしまったが、当時は子供らしく振舞う必要があったのだ。
情報量が全く足りない。前世の知識を元にした推測を立てる事しかできない。
おそらくは、重要拠点を奪う為の奇襲なのだろう。その通り道に、あるいは奇襲部隊にとって致命的な位置に村があり、邪魔だったのではないか。
隣村は安全か?
分からない。奇襲部隊の目標地点が予想すらできない。目標地点への通り道、あるいは奇襲部隊にとって致命的な位置に隣村が位置しているなら危険だろう。そうでなければ、見逃される可能性はある。可能性はあるが、絶対ではない。この奇襲が成功し、それによって勢力図に変化があった場合、隣村が敵国領になる可能性がある。占領の過程で、悲惨な事態になる可能性もある。
敵国に長く統治するつもりがあるなら多少税負担が重くなる程度で済むかもしれないが、皆殺しや奴隷といった待遇になる可能性も現時点では否定できるものではない。見た目安全そうに思えたとしても、次の避難先を考えた方が良い。
隣村が既に攻撃を受けていた場合はどうする?
……どうしようもない。行き先がない。
山中を大きく迂回して、隣村の外へ続く街道沿いの山の中を息を殺して進むしかないだろうか。
全く未知の世界で、伝手がない。身元を保証してくれる人間は、隣村が全滅すれば誰一人居なくなる。移動にかかる日数も分からない。俺の村から隣村まで、近道を使っても俺の足では五時間かかる。正規のルートなら大人でも八時間程度はかかる。国境に近いだけあって山道の険しい難所なのだ。この辺りの国境線は自然環境が引いているのだろう。
隣村から一番近い村が俺の村だと聞いた覚えがある。なら、隣村から別の村へは最短でも八時間以上。山の中を隠れて進むなら、子供の足である事も考えて一日は見ておく必要がある。
今日の昼に隣村を発って、俺の村に着くまで五時間。俺の村を出てから現在までに一時間。合計たった六時間の移動でも相当消耗している。水分を補給できるポイントも知らない未知の領域を、子供の体力で何日移動できるだろうか。
ほとぼりが冷めるまで、この山中で暮らす。水場も分かるし食料も取れる。大型の獣は猪風の獣をたまに見る程度だ。……却下。占領が、いつまで続くか分からない。俺にはこの山で冬を越す能力が無い。
一か八か、街道沿いに山中を進むしかなさそうだ。そうすれば十中八九死ぬだろう。しかし活路がそこにしか無い。
どうにもこうにも絶望的だ。せめて十四、五歳であればまだなんとかなったかも知れないが、九歳児というのが致命的だ。生存能力が低い。大人の庇護下でなければ、平時であっても一週間の生存すら危うい。まして戦争が始まったとなれば、今生の俺が成人するまで生きている可能性は我ながら気の毒なほど低い。隣村が既に攻撃を受けている場合、奇跡が二、三回起きなければまず近日中に人生を終える事になるだろう。
夜だ。月明かりがあり、よく慣れた道であるとはいえ、夜の山歩きは危険だ。大型の肉食獣を見かけた事は無いが、夜歩きをした事が無いのだから居ないとは断言できない。
体感で俺の村を出発してから三時間。隣村から俺の村までの五時間を加えて合計八時間歩き通しだ。隣村出発が昼の十二時だから今は夜の八時くらいか。今晩休み、明日朝六時に出発するとして、そこから二時間。朝八時には隣村に着く。俺の村が攻撃を受けてから、俺が隣村に着くまでに少なくとも十五時間が経っているという事になる。となれば、十中八九隣村は手遅れだろう。
俺の安全を考えるなら、夜間行軍の他に道は無い。夜も休まず歩けば、多少ペースが落ちたとしても今晩十二時には隣村に着くだろう。隣村に逃げ込み、しかる後に隣村を脱出する。三時間もかければなんとかなるだろうか。
次の避難先に向けて明朝三時に出発する……それで体力がもつかどうか。もつかどうか、ではない。もたせるしかない。でなければ死ぬ。
軍隊という移動の遅い部類に入る集団とはいえ、俺の村から正規のルートで隣村まで移動するには十時間もあれば充分だろう。明朝三時までには敵軍が隣村に到着する計算になる。
行軍速度の落ちるような装備をしているかどうかも分からない。行軍速度重視の奇襲なのだ。軽装である可能性は充分にある。で、あるなら十時間かかるというのもかなり希望的観測に近い。
馬の足跡などは見られなかったが、単に俺が見落としている可能性もある。下手をすれば、第一陣の到着が八時間を切るかもしれない。戦力の逐次投入などしないとは思うが、斥候を先行させるぐらいは有りうる。村から脱出するのを目撃されるのはまずい。
隣村でもたもたしていれば、死ぬ。
あれをすれば死ぬ。これをすれば死ぬ。それが出来ねば死ぬ。死ぬ、死ぬ、死ぬ。絶望的な状況と、言わざるを得ない。制限時間内に隣村に入り、村長に会い、大雑把な地理を把握し、紹介状を得る。それより他に道は無い。
しかし、九歳児にそれが出来るものだろうか。村長は、俺の保身の為に時間を割いて紹介状を作り、隣村の誰よりも先に俺を一人で逃がしてくれるだろうか。
村長に捕まれば、もたもたしているうちに逃げられなくなってしまうかもしれない。村長の紹介状でもなければ、身元不確かな九歳の戦災孤児が一人で生きていくのは難しい。
どうすればいい。これは、もう詰んでいるのではないか。
そろそろ村が見える。まだ考えはまとまっていない。思いのほかスムーズに移動できたから、今はだいたい夜の十時半前後だろうか。到着は十一時前になるだろう。この時間なら村は真っ暗だろう。燃料の貴重な僻地であるから当たり前だ。しかし、この体になって夜目が効くようになったとはいえ、それでは遠巻きに様子を窺うのも辛いものがある。
俺が俺の村を発ってから六時間。奇襲部隊が俺の村を出たタイミングが俺と同じであるなら、あと二時間程度の猶予が見込める。しかし、俺が家族の全滅を確認したときには、村はもぬけの殻だった。もし、奇襲部隊が俺の出発の二時間前に出発していたら。もし、斥候が先行し、今も人の出入りに目を光らせていたら。
どうすればいい。時間は有限だ。迷っている時間が惜しい。どうすれば、いいのだろうか。
迷いながら歩を進めていると、空の底が薄らと明るくなっているように見えた。血の気が引く。これは、村で火が焚かれている。
松明を持った奇襲部隊が、既に到着している?祭りなどはなかったはずだ、村が自主的に火を焚く事などないだろう。いや、なんらかの形で奇襲を察知し、迎え撃とうとしているのか?援軍がくるまでの時間稼ぎ……無茶な。あの村は猟師も二人しか居なかったはずだ。あるいは兵役経験者が居るかもしれないが、ろくな装備も無しに軍など相手にできるものか。
いや、少数での奇襲なら……重要拠点の奪取に少数で臨むなどという事はしないだろう。別働隊……?本隊が到着するまで目標地点の至近に兵を伏せておく、そのために先行させている?それなら兵が少数である可能性はある。あるが……前世で軍事に興味の無かった俺にはなにもかもが分からない。推測に自信が無い。戦のセオリーなど殆ど知らない。
村が見えた。これで、俺の生死が決まる。
村の中で、村長と思しき影が武装した人間と話をしているのが見えた。武装している人間は見える範囲では少数。多少のバラつきはあるもののある程度統一された装備を身に着けている。
軍だろう。隣国のものか、俺の村が所属している国のものかは分からない。
村人は皆緊迫した様子で忙しなく動き回っている。……動き回っている?村人に自由行動が許されているという事はつまり……
「助かった……のか……」
自国の軍隊だろう。村が敵国に降ったとしても、村人がここまで自由に行動を許されるとは思えない。どうやってかは知らないが、軍が攻撃を察知して救援に、防衛に来てくれたのだ。
あり得ないと思っていた事が起きた。俺が知らせねば村の全滅は伝わらないと思っていた。敵の目的が奇襲であるなら、もうこの時点で失敗している。大きな戦闘も無く退くだろう。
ひとまずは、俺は助かったのだ。あとはどうにか村長の庇護下に入る事ができれば、なんなりとやりようがあるだろう。
どうにか、生き延びる事ができた。気が抜けて、眩暈がする。助かったのか?多分助かった。助かったはずだ。おそらく、きっと。