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踏み外さないように

作者: シト
掲載日:2026/04/06

 最初に踏み外したのが、どの瞬間だったのかは分からない。

 ただ、足元に違和感だけは残っていた。



 市役所の廊下は、午後の光で白く満たされていた。

 窓が大きいせいだろうか、やけに明るい。床のタイルも、壁も、均一に光を返していて、どこにも影を落としていないように見える。


 その中で一枚だけ、光を吸っているものがあった。

 掲示板の隅に貼られた紙だった。

 それは特別大きくもないし、目立つ配置でもなかった。他の書類と同じように、四隅を画鋲で留められているだけの、ありふれた紙。


 なのに、悠馬の視線はそこに沈んだ。


 ――影の更新について

   未更新の影は正常な位置を保証しません――


 文字は読めるのに、内容が頭に残らなかった。


 が、気づけばそこに書かれている窓口の列に並んでいた。


 他の人と同じように、自然と足元に視線を落とす。

 影が目に入る。


 違和感。

 一瞬、世界の輪郭が少しだけズレたように感じた。

 瞬きをすれば消えてしまうほどの、僅かな違和感。

 だが、その一瞬の違和感が、己の存在に対する“ズレ“のように感じられた。


 「次の方、どうぞ」

 窓口の職員に呼ばれる。職員は、こちらを見ているというのにどこも見ていないような目をしていた。


 「期限、切れてますね」

 淡々としている。責めるわけでもなく、同情するわけでもなく、ただ事実だけを置いていく声。


 「影って、期限あるんですか」

 「人によりますけどね」

 曖昧な答えに、逆に引っかかる。


 「切れると、どうなるんですか?」

 職員は、少しだけ間を置く。


 「――少し、扱いづらくなります」

 「扱いづらい、というのは?」

 「個人差がありますので、一概には申し上げられません」

 それだけ言って、職員は次の書類に目を通した。それ以上は答えてくれないと、なんとなく分かった。


 少し待つと、名前を呼ばれた。案内された部屋にはガラスケースが並ぶ。

 中には黒いものが入っていて、それが“影“だと説明された。


 「どれも大差はありません」

 職員は淡々と言った。

 だが、悠馬には違いがはっきりと見えた。


 輪郭がきっちり整っている影。

 水面のように揺れ動く影。

 濃く、床に沈み込んでいる影。


 手に取るように違いが感じられた。

 扱いやすそうなのは、輪郭がきっちり整った影だ。

 余計な揺らぎがなく、癖も感じられない。誰のものでもないような、空白に近い影だった。迷わずそれを選ぶ。


 理由は単純。

 ――楽に歩けそうだから。


 装着は初めてだったが、思ったより負荷がなく、数十秒で終わった。少し、体の重みが変わった感じはしたが、それだけだった。


 それだけ。


 外に出ると、影はきちんと悠馬についてきた。

 ズレがない、安心できる影だった。


 ただ、それからの日々は


 ――妙に滑らかで、整っていた。


 仕事でのミスは減り、人との会話でも角が立たない。感情は穏やかで、何事もほどほどに収まる。以前よりも楽だ。

 楽なのだが、ただ、どこか世界が遠い。

 嬉しいことも、腹が立つことも、少し遅れてやってくるような感覚。それが本当に“自分の感情だったのか”が、分からなくなる瞬間があった。


 慣れるだろう、と悠馬は思った。


 数日したら、その感覚はいつの間にか気にならなくなっていた。

 平穏で、何も起こらない日々。それが続いていることにすら、特に疑問はなかった。


***


 そんな折、旧友に会った。


 「おーい、悠馬!」

 久しぶりに名前を呼ばれて、少し間が空いた。

 振り返ると、旧友が立っていた。


 偶然の再会を喜び合い、近くの居酒屋に入った。しばらく連絡を取り合っていなかった分、話は尽きず、他愛のないことで笑い合う。


 「お前、昔からそういうとこあったよな」

 旧友が笑いながら言った。なんの話の流れだったか、あまり覚えていない。ただ、そのとき悠馬はうまく笑い返せなかった。

 昔からそういうとこ、という言葉が、うまく着地しなかった。

 

 自分の“昔“がどういうものだったか、すぐに思い出せなかったのだ。思い出せないことに対して、違和感すら湧かなかった。 


 その合間に、旧友がふとこちらを見て言った。

 「……なんか、だいぶ雰囲気変わったな」


 すぐに話題は戻り、会話は続いた。

 冗談めかした口調だったが、妙に引っかかる。

 以前の自分なら、もっと自然に笑えていたはずだ。


 少し遅れて、笑おうとする。

 けれど、そのタイミングがどこかズレている気がして、結局うまく笑えなかった。


 帰り道、街灯の下で足元を見やる。影はきちんとついてくる。

 少し足を前にずらす。


 ―― 一瞬だけ、感覚が抜けた。


 軽い。“何もないところに置いた“ような感覚。

 すぐに戻せば、世界は元に戻った。


***


 数日後、悠馬は再び市役所に出向いた。


 「影、変えたいんです」

 職員は、一瞬だけ目を細めた。


 「今の影、安定しているように見えますが」

 「なんか、軽くて」

 言葉にしようとしても、上手くまとまらなかった。


 案内された部屋には、見覚えのあるガラスケースがあった。影が並んでいる。


 今度は、水面のように揺れる影を選んだ。

 見ていて落ち着かない。しかし目が離せない。


 影を装着する。

 足元が重く、深く沈む感覚があった。

 けれど、その影が持つ杭のような圧迫感が、悠馬を世界に存在させてくれるような気がした。


 外に出る。

 前よりも、世界の輪郭が少しだけ強くなった気がした。視覚も、体の重さも、以前より鮮明だ。世界に触れている感覚がした。


 けれど、違和感もあった。


 部屋の灯りをつけたとき、ふと影が先に動いたように感じた。“追従しているはずのもの”が、先に位置を決めている感覚。

 気のせいかと思い、もう一度足を動かす。

 今度は同時。

 だが微かに、影に“動かされた感覚“が残る。

 気のせいではない。


 それからときどき、同じようなことが起きるようになった。


 自分が動く前に、影がかすかに形を変える。

 進む方向をなぞるように。


 そんな感覚にうんざりして、影を踏もうとする。

 その瞬間思い出す。子どもの頃、影踏みをして遊んだ記憶。


 友達の影を踏むと、「やめろよ」と笑われた。そして友達も負けじと、悠馬の影を踏もうとする。悠馬は全速力で逃げたが、影は長い。あっという間に踏み返された。


 あのとき影を踏まれた感覚は――

 思い出そうとしたが、やめた。


 代わりに、確かめるように足元を見る。何となく影の外に足を出した。

 すると、


 足場ではなく、“位置そのもの”が消えたようだった。


 伝わってくる体の重さも、知覚も、全部が少し遠くなる。

 怖い、というより、“自分がどこにあるのかがわからない“感覚。


 慌てて戻すと、世界が戻る。

 息を吐いた瞬間、気づく。

 ――さっきの一瞬、自分が少しズレていた。


***


 仕事帰り、名前だけは知っていたバーに立ち寄ろうと思った。

 地図を調べた覚えはないが、足が迷わなかった。


 曲がる場所も、立ち止まる位置も、考える前に決まっている。


 次の一歩が出る。


 違和感は後から追いついてきた。


 ――どうして分かる。

 立ち止まって、足元を見る。影がある。

 

 影が、知っているのか?


 ふと、あの掲示板のことを思い出す。


 ――影の更新について

   期限切れのものには注意――


 言葉の意味が、あのときはよく分からなかった。

 今なら少し分かる気がする。


 自分ではない何かが、知っている。


 影が、歩き方も、足を置く位置も、覚えている。

 そして、自分はそれに従うしかない。

 その発想は、悠馬の頭にしっくりと収まった。


 それからは、影の動きに逆らわないようにした。

 その方がうまくいくと、分かっていたからだ。


 最初に選んだ影には、おそらく何もなかったのだと思う。

 だから、世界は滑らかで、少し遠かった。


 この影は違う。どこかの誰かの“記憶“を持っている。

 だから、悠馬はそれをなぞった。


 夕方、街灯が灯る。

 影がゆっくりと前に伸びる。

 悠馬はそれを、踏み外さないように歩く。


 それが自分の意思かどうかは、もう考えない。


 考えたところで、

 その考えすら、


 どこからきたものなのか分からないのだから。


 ただ、影がある場所に足を置いていけば、ズレは起きない。

 それだけで十分だった。


 ――影が止まる。


 一拍遅れて、悠馬の足も止まる。


 その順番に、もう違和感はなかった。


 そうでなかったことも、思い出せなかった。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

今回が初めての小説投稿で、不安な気持ちもありますが、こうして書き切ることができてほっとしています。

この物語が、少しでも何かを感じてもらえるようなものになっていたら嬉しいです。

感想などいただけたら励みになります。

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