私の夫を寝取った妹を、「そろそろ許してやりなさい」ですって?
「エレノア、そろそろ意地を張るのはやめなさい」
と、兄は苦笑した。
「いい加減見苦しいぞ。リリスにはそろそろ二人目の子供が生まれるんだ。お前はいつまでもそんなだから、レオンだって肩身が狭そうだ」
がつん、と殴られたような衝撃が頭に走る。
「お兄様……」
私は喘ぐようにひいひい息をして胸を抑えた。
「本気でそんなこと、言ってるの……? 姉の夫を寝取った妹を、許してやれですって?」
彼は黙ったまま肩をすくめ、クリスタルグラスから水を飲んだ。
東屋を渡る風は冷たく、日差しは暖かかった。
三年前のことだ。あの日のことを私は今だに夢に見る。灰色だった。空と空気と世界そのものが、一気に色を失った、あの日。
――三年前。私、エレノア・ヴァルディアが貴婦人たちのお茶会から家に戻ると、夫と妹が同じベッドの中にいた。私たちの寝室、私たちのベッドに。
扉を開いた姿勢のまま固まった私に、メイドはあちゃあ、と舌を出し、従僕はククッと肩を震わせ――夫と妹は、顔を見合わせてクスクス笑った。
彼らの関係を知らないのは家の中で私だけだった。私だけが、道化だったのだ。
その日の朝にメイドに指示して洗わせたばかりのリネンだけを身にまとい、リリスはうふんと笑いながら立ち上がった。
「お姉様、ごめんなさあい。……でも、アタシ、レオンのこと愛してしまったの」
ベッドの中から手が伸びてきて妹の身体に絡んだ。二人が抱きしめ合うのを私は声をなくして見つめた。
確かに愛情から始まった婚姻ではなかった。没落伯爵のヴァルディア家と、新興気鋭の商人の家の跡取り息子であるレオン。領地のことを思えば、悪くないと自分に言い聞かせて嫁いだ。夫に恋人が、それもたくさんいることは割り切っていた。でも。
「リリス……は、私の妹よ」
私は抑揚のない声で夫に言い、背後で複数人のメイドたちがプーッと吹き出した。彼女たちの雇い主は姑で、彼女は私を嫌いリリスを気に入り、また私も彼女を嫌っていた。
その瞬間、リリスのことも嫌いになった。憎んでしまった。夫レオンのことも、この大きく新しいばかりで歴史のない家のことも。
そうなってしまっては、もう同じ家にいることはできない。
実家に戻った私に父母は怒り狂った。これで支援が途切れたらどうすると罵り、早く婚家に戻れと怒鳴った。私のことを心配してはくれなかった。
そんなところへ、レオンとリリスは連れ立って現れた。しっかりと腕を組んだ二人。まるで似合いの若夫婦のような二人。リリスの白い手はレオンの逞しい腕にすがっていた。
夏だった。妹はぴったりしたドレスを着ていて、そうするとそのふくらみがよく見えた。――ふくらみ。
私は何も言えなかった。言葉が、出なかった。
ただ、頭の中で何度も同じ問いが繰り返されるだけ。――どうして? ――どうして、私なの? お姉ちゃんだから我慢しなさいと言われて育ってきた。言われた通り、我慢に我慢を重ねて生きてきたつもりだった。
そうすれば、いつか幸せになれると信じていた。
レオンは堂々と私に目を合わせ、胸を張った。
「エレノア。見ての通りだ。リリスは妊娠した。俺が守るべき人は今日からお前じゃなくてリリスと子供だ」
「レオンさまあ。リリス嬉しいっ」
「……そう」
私は下を向き、言えなかった。泣くことすらできなかった。
父母が応接室に飛び込んできた。
「なんですって? リリスが子供を授かったの!? なんて素晴らしいことかしら!」
母はくるくると踊り、リリスを抱きしめ口づける。
父も、満足げに頷いている。
「二つの家を完璧に結びつける子だ。喜ばしいことだな」
――私の夫の子供なのに?
叫び出したかった。父は私を見てフンと鼻を鳴らした。
「嫁いで三年もするのにいまだ身籠らん姉とは大違い……」
私は踵を返し、部屋から逃げ出した。実家のメイドたちは気の毒そうな顔をして、中には涙ぐんでいる者もいる。それは姑の手下の婚家のメイドたちに笑われるより、辛かった。
父母の愛情に差があることは理解していた。私は家のための政略結婚の駒であり、次女であるリリスは愛玩するための娘だ。でも、これほどとは。その愛情の差がこんなにもひどい目にあう理由になるとは、思ってもみなかった。
自室で泣き疲れて眠ってしまった。目覚めると枕元に兄がいた。
「エレノア、しばらく山の中の別荘に行かないか。人の噂も届かない、小さいが居心地のいい場所だよ」
と優しく提案してくれる。
その瞬間、張り詰めていたものが切れて私はまた泣き出す。
「お兄様、なんで? なんでお父様とお母様……どうして、リリス。どうしてこんなことに……」
兄は静かに私の肩に手を置いて、泣き言を聞いていてくれた。
それから三年。
結婚したときは十八歳。姑と使用人のいじめと夫や舅の無関心に耐えて離婚されたときは二十一歳。今は、二十四歳。そろそろ適齢期も過ぎる。二度と再婚できなくなるのは構わないが、このままこの山荘で朽ちていくのも怖い、そう思うようになっていたとき。
「そろそろ許してやりなさい」
遊びに来た兄が微笑んで言った。
お土産の都会のケーキの味が口の中で粘土になった。
私の中の何かが、完全に壊れた、気がした。
「リリスに人形を取られても、社交界のドレスに差をつけられても、文句なんて言ったことなかったわ、私」
口の中のものを飲み込んで、私は言う。涙目で兄を睨むと彼はグラスを掲げて私の視線を避けた。ああ、どうして気づかなかったんだろう。いつの間にか彼は父にそっくりになっていた。
「長女ですもの。ヴァルディア家のために生きようと決めて、頑張ってきたのに」
「だから、もういいよそういうの。いい加減大人になりなさい、エレノア」
「帰って、お兄様」
兄は大仰なため息をついて立ち上がった。やれやれ、だだっ子にも困ったものだ、と言いたげに。
おそらく三年のうちに彼の中でそういうことに結論づけられてしまったのだろう。何もかもエレノアが悪いのだと。思えば実家にはそういう空気が最初からあって、私はいつだってそういうことに、悪いことの原因にされてきたのだった。
数日後、私は山を下りた。行き先なんて決めていない。ただもう疲れてしまって、離婚から三年も経ったのにちっとも癒されていないことを突きつけられたのが悔しかった。この場所にいたくなかった。ヴァルディア家に関わるすべてのものを見たくなかった。
旅は孤独だったけれど楽しかった。辻馬車を乗り継ぎ、実家も婚家も名前さえ伝わらない土地まで果てしなく逃げる。知らない土地の知らない名前は面白く、知らない人たちはとても親切で、徐々に心は静かになった。
持ってきた路銀は早くに尽きてしまい、街で皿洗いや洗濯の日雇い仕事を探して安宿に泊まり、ときには街道を徒歩で行く。他の旅人の見様見真似で野宿を覚えた。身体が疲れると頭をカラッポにして眠れるのがよかった。家事から貴婦人の社交から何から何までやらされていたことを、感謝したのは初めてかもしれなかった。
そんなある日のこと。
「ん?」
左手の甲が鋭く痛んで、草の葉か何かで切ったのかしら? と掲げてみると、紋章が光っていた。
「えっ」
と叫んだきり、慌てて右手で覆って草むらに引っ込む。街道には案外、人が通りがかる。さっきも三十人くらいの大規模な隊商と行き会ったばかりだった。
さて、何度確かめても相違ない。
――赤くきらめく紋章が前触れもなく左手の甲に出現していた。
紋章は、【聖女】や【勇者】など特殊な立場にある者の手に現れるとされるもの。神様の寵愛の証であり、国の監視下に置かれるべき存在でもある。
「わあ」
――どうして、私なの?
何度も何度も思った言葉を、それまでとは違う意味で私は思う。
「どうして……?」
と囁いてみても、紋章は赤く光るばっかりで応えてくれなかった。蔓草が絡んだユニコーンのような模様は、角度によってきらきら表情を変える。とても綺麗だけれど危険だった。私は上着のポケットからハンカチを出して手に巻き、顔を上げると男がいた。
「どうしてはこっちのセリフだ」
呆れたようにその人はぼやく。がりがり頭をかいて、困り切った様子で溜息を吐いた。
「どうして、こんなところに【紋章持ち】がいるんだよ……」
「ええと、すみません、こっちも困っておりまして」
ぽろんと言葉が転げ出た。
「困惑しておりますのは私もですの」
「ああ、俺もだ」
私は立ち上がった。草むらの中でその人はひときわ異質である。背が高く、肩幅も立派で、腰には剣。といっても剣士ではなさそうである。
「一人なのか?」
「あっ、はい」
「名前は。俺はシュトラウスだ」
「エレノアと申します。はじめまして」
家名を名乗るのはやめておいた。
「この辺りを女一人で旅するなんて珍しい」
低く落ち着いた声で彼は言う。雷がゴロゴロいう音じみた低音だった。ざんばらの黒髪と伸び放題の髭。……あら? 思っていたより美形である、と思って、そんなことに気づく自分がおかしくて笑えた。
「呪いの匂いがするな」
「な、何ですって?」
「強い呪いだ。しかも、かなり特殊な類の」
男は――シュトラウスはじいっと私を見つめる。
「……私、呪われてなんかいません」
「いいや。呪われているよ。ひどいな、これじゃあ、誰も愛してくれなかったろ?」
言われた言葉に心臓が跳ね、一歩近づいてきた彼を気づけば突き飛ばしていた。
両手首がじんじん痛む。左手の紋章がぴかぴか光る。
「ごめん。失言だった」
シュトラウスは静かに頭を下げた。
「申し訳ない。初対面で、失礼をした」
ハアハアと間近に聞こえる息の音が自分のものだと理解するまで、しばらく間があった。冷や汗を拭い、胸をさすり、私は言う。
「こちらこそ、ごめんなさい」
そう言えたことにほっとした。家族にいつも謝っていたときとは違って、心からそう言えた。だっていきなり突き飛ばすなんて(彼はこゆるぎもしなかったけど)、私が悪い、当たり前でしょう?
シュトラウスは眉を寄せて苦笑した。
かわいそうに、と言ったらまた殴られそうだったんで自重した、とのちに彼は私に語った。
***
それから。
私は王都の神殿に連れていかれ、正式に【聖女】であると認定された。ほどなくして癒しの魔力が発現した。
【紋章持ち】は世俗との関連を一切断ち、神殿にて祈りの日々を送るならわしだ。修行の日々が始まった。私は私に与えられた運命と力を、コントロールしなければならない。
魔力の操作方法、呪文の暗記、それから実践。【聖女】の魔力は癒しの力なので、神殿を訪れる傷病者を癒すことが仕事である。私はまだ現場に出させてもらえない。ひたすら、基本的なことを覚えるのみ。
この過程で幾人もの【紋章持ち】が脱落し、神官たちの力で紋章を封印され俗世に戻るという。それでなんら問題はない。ただの民草の一人に戻ることができる。
でも私は頑張って、頑張って、頑張り切った。なにしろ戻れる場所もないのだもの。もう二度と、あんな思いはごめんだもの。
私はずっと――何者かになりたかったのかもしれなかった。【聖女】になれなかったら他の何かになるべく頑張ったのかもしれなかった。
そして頑張り切れたのは、シュトラウスがいてくれたおかげだった。
彼は神殿の護衛をする聖騎士の一人であり、といっても普通の騎士様とは違って、生涯を神殿に捧げる契約をした人なのだった。聖騎士団は規律と信仰に基づいて生活し、神殿を守る。その中にいる【巫女】や【聖女】を。そして【勇者】が現れれば、その人に稽古をつけ騎士団に迎え入れる。
私たち【紋章持ち】は神様がこの国を好いていてくれる証拠だ。大切にされる。
けれどシュトラウスは、たぶんそれ以外の理由もあって私によくしてくれていた。私はそれが嬉しかった。
「ほれ」
たまの休暇の際、彼がそっぽを向きながら蜂蜜の瓶をくれたのが始まりだった。
「まあ、ありがとう」
と言って受け取ったものの、正直言ってそれがどんな意味なのかわからなかった。私をここに連れてきたのは彼だから、気にかけてくれているのかも、と思っていた。
同輩の【巫女】ミモザに、
「あんたそれ絶対違うわよ」
って言われるまで気づかなかった。
「たぶん彼、あなたのことが個人的に気になっているのよ」
「ええ?」
幼い頃から神殿で育ったミモザは、そういう遠回しな物言いをする。すでに他の【聖女】たちと一緒に傷病者の看護をしているだけあって、肝が据わっている。私は曖昧に笑ったけれど、その晩寝床の中でゆっくり考えてみた。
護衛騎士たち。彼らの仕事は神殿の警護以外にも、各地で突然覚醒する【紋章持ち】を探し神殿に連れてくることがある。彼と私が出会ったのもそんな任務のうち――ではなくて、シュトラウスが年に一度の休暇で故郷に帰った戻り道で偶然、行き会ったのだった。
護衛騎士たちが所有する唯一の装飾品である鋼の指輪には、特殊な宝石が埋め込まれている。これが【紋章持ち】の左手の甲に反応して光るのだ。
――彼の指輪が光ったのは、私に対してが初めてだったという。
私は寝返りをうつ。左手の甲を眺めてみる。月明かりの下、それは赤くきらきら輝いた。心臓の鼓動が早くなると、輝きも一層蠢くのだった。
一年が経ち、二年が経った。人を癒すことに喜びを覚えるようになり、神殿のことを家と思うようになった。シュトラウスは訓練の合間に、私は修行の休憩時間に、待ち合わせて話し込むようになっていた。
二十六歳のとき。求婚を受けた。
「少し……考えさせて」
と言ったのは、また同じことになるかもしれない、という恐怖が本能的に頭をもたげたからだった。
もちろん、わかっている。シュトラウスはレオンとは違う。もっと誠実で、地に足のついた実直な男性である。背が高いとか身体が大きいとかじゃなくて、心が広いのだ。
少なくとも、彼は他の女の人を好きになったらそのときにちゃんと話してくれるだろう。
それを聞いた私が、どうなるか今の私にはわからないけれど……。
迷いに迷い、ミモザに話を聞いてもらい、あやされたり諭されたりしながら私は決めた。
「申し出を受けるわ。でも、過去のことを聞いてほしいの」
と言い、彼はわかったと頷いた。
神殿の中庭を一緒に散歩しながら、昔の話をした。十八歳から二十四歳までの話。それからもっと前の、幼少期のことを。そうして話してみると、私の人生の中心には常にリリスがいた、と気づくのだった。
あの美しい妹のため、私はどれほどのものを犠牲にしたのだろう。そしてそのことに気づかないでいたのだろう。
私は話し始めた。ゆっくり歩きながら、最初はたどたどしく、徐々に激しく。シュトラウスは最後まで私の話を遮らなかった。話し終えたとき、私は息が荒くなっていたし、彼の全身は細かく震えてさえいた。
心臓がトコトコ速くなり、けれど身体の反応とは真逆に心が軽くなっていることに気づいた。ずっと言わずにいたあれやこれ。憎しみや恨みといった汚い部分をやっと言葉にできた爽快感と、後悔がある。
「……以上よ」
花壇を見つめたまま私は言う。冷たい風が吹く。
――怖かった。シュトラウスに何を言われるのか。
軽蔑されるか、思っていたのと違うと怒り出すかも、あるいは――また「許してやれ」と言われるのかもしれない。そうだったらどうしよう。立ち直れない。
「ふざけてるな」
低い声が落ちた。
思わず顔を上げる。
シュトラウスは、今まで見たことのない顔をしていた。普段の無骨な優しさではなく、はっきりと怒りに歪んだ顔。
「全員だ」
「……え?」
「妹も元夫も、親も兄貴も。まとめてふざけてる」
言葉は乱暴だったが、その分彼の本心だと理解できた。胸の奥底に風が吹いた。
「お前がどれだけ耐えてきたかも、どれだけ奪われてきたかも、誰一人理解していない」
「……うん」
「許せ、だと?」
彼は吐き捨てるように言った。
「許す必要なんてない。お前はずっと憎んでいていいし、恨んでいていい」
「でも、」
かすれた声をどうにか絞り出す。
「許さないと、前に進めないって……言うわ。私もそれは、事実だと思うし……」
「誰が決めた」
彼はすぱんと私を遮った。初めて。怒りに満ちた目で中空を睨んで続ける。
「そんなものは綺麗事だ。怒るべきときに怒れなかった人間に、無理やり「許してやれ」だと? 許しはおのずから湧いて出てくるものであって、他人が押し付けるのは暴力に等しい」
彼の黒髪が風に揺れる。ぴょこんと耳の後ろで跳ねるひとふさが愛らしい。私はもう冷たさを感じなかった。シュトラウスの体温は高く、間近にいると温かい。
「お前は十分すぎるほど我慢した。これ以上、自分を抑える必要なんてない。許さなくていい」
私はほうっと、ため息をつく。鼻の奥に涙の味がした。でも泣きたくない。あんな人たちのことを思い出して、また恨んで泣くなんて。敗北だもの。
「私はずうっと、正しくあろうとしてきたの。人に言われた正しさを踏襲してた。優しい姉で、素直な娘で、文句を言わない妻で。怒らず口答えをせず、従順な……」
「怒ってよかったんだ」
「怒るのは辛いもの。憎むのも恨むのも、辛い……の」
「そりゃそうだ。しごく当然だ。でも、それが自然な心の動きだろう」
すっぱり断ち切るような明快な即答だった。
私は笑った。風はどんどん強くなり、髪の毛が翻ってしょうがない。髪を抑えるふりをしながら目の端の涙を振り払う。
「……私、あの人たちが嫌いだわ」
初めて、はっきり言えた。
「リリスも、レオンも、お父様もお母様も……お兄様も。みんな、頭がおかしいのよ」
声は震え喉がひしゃげた。でも言葉は止まらない。こんなことを、あのとき、あのとき、あるいはあのときに言えたらよかった。震えるばっかりで、言えなかった。今更言ったってしょうがない。でも。
「家族のこと、全員嫌い」
やっと言えた、と思った。
「それでいいさ」
シュトラウスが言った。
「憎しみごと俺んとこ来ればいい。真夜中に怒り狂って起きたら俺を叩き起こせ。聞いてやるよ」
「そんなことしたらすぐ離婚されそう」
私は泣き笑いする。涙を見られたくなかったが、大きな手が伸びてきて冷えた頬を包んでくれたので、隠しきれなかったのを知る。
「二度目は嫌よ」
「わかった。絶対ないよ」
「……嘘。絶対、はないわ」
「それでもだ。俺は神殿付きの聖騎士だぞ?」
片方の眉と肩を同時に上げるなんて器用な真似をするシュトラウス。彼の顔は綺麗だけれど、それ以上に表情が清らかだった。全部受け入れてくれるんだわ、と思った。本当に。
嘘をついていない人の目ってどうしてこんなに底深いんだろう?
私は陶然とする。こんな人と巡り会い、今こうして一緒に立っている。信じられない。
ヴァルディア家の一番冴えない娘がこんな幸運を手に入れていいのだろうか?――いいえ、きっと、いいのだわ。
「俺はお前と生きていきたいと思ってる」
彼は不器用に言った。飾りっ気のない実直な言葉。心の一番ささくれたところにそれが染みた。信頼、というものの意味を知った気がした。
「お前はどうだ?」
少し緊張した様子で彼は問う。握り拳と引き結ばれた顎の線が硬い。
――どうして私なの?
かつて何度も繰り返した疑問がふと胸に浮かんだ。今までとは違った意味で。
答えはまだわからないし、一生分からないままかもしれない。けれど私は頷いた。
「私も同じ……気持ち。シュトラウス、あなたと一緒に生きたい」
私たちは手を取り合った。神殿の真ん中で。新しい家の中で。
簡素だけれど心の籠った式を挙げ、みんなが祝福してくれた。
嬉しかった。最初の結婚式でレオンは挨拶回り中に酔っぱらってしまって、私は主賓席に一人取り残された。そんなのと比較できないくらい、思い出す暇もないくらい、忙しなく楽しく嬉しかった。
***
三年が経った。二十九歳。もう大人。
もう大人だ! 当たり前だけれど。けっこう前から大人の年齢だったけれど。
後輩たちの指導に当たるようになり、傷病者の手当もなんのその。救えた命と、そうではなかった命のため日々祈りを捧げ、神殿の奥深く――ではなく、シュトラウスが王都に用意してくれた家に住む。
そう、なんと【紋章持ち】でも申請すれば神殿の外で暮らせるのです。
「そりゃ、そんな前時代の奴隷みたいな扱いはしないよ。大事な大事な【聖女】なんだから」
と呆れた顔をするミモザは、今度の春に出世して聖女たちを束ねる神官になることが決まっている。
「そもそもあんたとシュトラウスの結婚だって、誰も文句言わなかったでしょ? 神殿は民草の安全と自由を守る精神の砦。みみっちいこと言いっこなしよ!」
「そっかあ。言われてみれば、そうだわねえ」
言われてみれば、護衛騎士と結婚してる【聖女】、けっこういっぱいる。逆に市井にお嫁さんがいる神官や【英雄】や【竜使い】も。
「気づかなかったわ」
「どんだけ浮かれてたのよ、あんた」
「あはは……面目ない」
なんて笑い合っていた冬。
春になった途端、国土のあちこちで自然災害が起き始めた。鉄砲水や土砂崩れ、地割れなど。ありうることではあるが、突然のことに人々は慌てふためく。【巫女】たちは神様に祈りを捧げ、私たち【聖女】は各地に救援に赴くこととなった。
シュトラウスと同じ隊だったのにほっとしながら、総勢四十名で向かう先――それが実家であるヴァルディア家のある土地であり、つまり元夫レオンと妹リリスがいるかもしれないと気づいた。
夫がすすっと近づいてきて、私を抱きしめ頭のてっぺんにキスをする。
「嫌なら戻らせてもらおう」
「ううん、嫌じゃないの。怖くもないわ」
私は彼を振り返って笑った。
「ほんとに、ちっとも。むしろ怪我をした人たちのことが心配でならないの。早くいかなきゃ!」
それならいいが、と彼は安堵した表情を見せる。私たちはずいぶんとお互いの感情を読むのがうまくなっていた。
やってきた土地は、河の急激な増水がようやく引いたばかりだった。畑も家も浸水してしまい、流された怪我人、泥水を呑んで病気になった者、泣く子供たちがたくさんいた。すでに軍隊が先入しており、彼らが複数のテントを張った簡易の診療所を整えてくれていた。私たちはありがたく、そこで魔法陣や薬の棚を広げ、患者を診ることにした。
さて、物語というのは常々そういうものだけれど、まだここに来て二日も経たないうちに私はその声を聞いた。
「なんですって!? うちは伯爵家なのよ! 伯爵夫人のアタシに地べたに座れってのぉ!?」
わめく声。キンキン頭のてっぺんに響く。
私はちらり、そっちを見る。リリスだった。妹である。……いかにも元気そうだ。足元には三人の幼い子供たちが座り込んだり、スカートの裾をいじくったりしている。
私はちょっぴり笑った。それから治療に戻った。
視線を向けることなく耳だけで、妹の声を聞く。懐かしいな、と思った。それだけだった。
それ以上のこともそれ以外のことも何も思わなかった。むしろ絡まれている若い下士官が気の毒である。
「はい、これでいいですよ。お大事に」
「ありがとうごぜえます、【聖女】様……」
私は微笑み、頭に包帯を巻いた老人を送り出す。次。子供連れの若い女で、どちらも脱水症状と疲労がひどかった。癒しの魔法をかける。
二人が立ち去って次の患者がやってくるまでの間に、騒ぎが大きくなり野太い声がするのに気づいた。元夫レオンの声だった。こんなに酒焼けした声だったかしら? 首を傾げつつ、私は治療を続行する。
大声で怒鳴るレオンとそれを擁護するリリスに、さすがの軍人たちも手を焼いているようだった。護衛騎士たちの声もちらほら混じった。彼らも暇ではない。協力して行列をさばいたり配食の鍋をかき混ぜたり瓦礫をどかしたり、することはいくらでもある。
(邪魔ばかりして……)
本当に、進歩しない。
むらむら黒い感情が沸き上がりつつあった。シュトラウスに許さなくていいと言われてから、逆にそんなものは忘れたのかと思ったのに。
――やがて騒ぎははっきりとこちらへ近づいてきた。
「だから言っているだろうが! 俺は伯爵家代理当主だぞ! その妻をこんな場所で立たせるとはどういう了見だ!」
「そうよ! アタシに地べたに座れなんて、失礼にもほどがあるわ!」
男と女の声が重なる。わんわんと反響かに思われた。
私は手を止め、ちらりと天幕の向こう側を見る。手は迷いなく動き、患者の縫い合わせた傷口に魔法をかけ終えた。
「さ、これでいいですよ」
と頷いて、また視線を上に戻す。凍り付いた二人がそこにいた。
レオン。リリス。腕を組み、まるでいつかと同じように並んで立っている。
ただし違うのは、その姿だった。あのときのようなネグリジェ姿ではない。穴が空いて汚れた服と泥にまみれた靴。整えられていない髪、こけた頬、目の下の隈。
それでも二人は私を見つけた。
「……エレノア?」
レオンの足が止まる。
「……お姉様?」
リリスも同時に言った。
「はい、次の方」
私は言った。行列は怪我人よりも衰弱した人の比率が高くなっていた。魔力が尽きてしまう前に、できるだけ多くの人を回復させてあげたい。
「お前っ、なんでここに!」
「お姉様、なんでそこに入ってるの? あんたが入っていいとこじゃないのよ、出なさい!」
私はそちらを見ない。だが二人はテントの中に押し入ろうとした。泥が飛び散る。
「ご無体はおやめください。どなた様ですか?」
「な……っ」
リリスの顔が引きつった。
「なに言ってるのよ! アタシよ、リリス! あなたの妹――」
「このテントは怪我人のためのものです。皆さん列に並んでいますよ。規則を守ってください」
「ふざけないで!」
リリスが声を張り上げた。
「姉妹でしょ!? 何よその態度!」
「順番を守れない方の診療はお断りしています」
私は一歩も動かず言う。
「他の方のご迷惑になりますのでおひきとりください」
癇癪を起したように叫んだのはレオンの方だった。
「なんだとエレノア! おい、その物言いはなんだ。俺たちは家族だろうが――」
「家族?」
私は鼻で笑う。
「今は他人でしょう?」
二人は絶句した。置いていかれた子供たちがようやく追い付いて、ひいひい泣き始めたのは哀れである。私はその甥姪たちをちらりと見たが、なんの感慨も湧かないのだった。
「診療を受けるなら列へ。受けないならお引き取りください」
「あんたァ……!」
リリスが一歩踏み出そうとした、その瞬間。
「そこまでだ」
低い声が割って入った。シュトラウスと他何人かの騎士たち。彼らは大きな体で私と患者たちの前に出る。私を守るためではない、神殿の義務と助けを求める人々を守るためである。
「ここは治療所だ。騒ぐんじゃない」
「誰よあんた!」
リリスがキイキイ噛みついた。地団太を踏んだ拍子に子供がコロリと脚から飛ばされ、ひときわ激しく泣き始めた。
「関係ないでしょ! そこどきなさいよ」
「俺は彼女の夫だ。妻への侮辱は許さない」
シュトラウスは端的に告げた。
「……は?」
レオンとリリスが、同時に声を漏らした。
「俺はエレノアの夫だと言っている」
シュトラウスは繰り返す。
「だから関係ある。あんたたちが妻を脅かすなら夫として俺は対処する」
「う、嘘言ってんじゃないわよ……!」
リリスの声が裏返る。
「せ、聖騎士と!? あのグズでブスのお姉様が、ですって!? あったまおっかしーいのお!? あっ、わかった。その人が昔、アタシの夫に何されたか知らないんだ。あんた騙されてるわよ、騎士様!」
「過去は関係ないだろ。俺はそんなことで好き嫌いしない」
シュトラウスは肩をすくめると、腰の剣の柄に手をかける。他の騎士たちも同様にする。患者の間に緊張が走るが、やや面白がっている者たちもいるようだ。
「これ以上神殿の神聖なる義務を妨害するなら、実力行使する」
私が目を伏せ忍び笑いを漏らしたので、癒されている最中の男が不安そうに首をすくめた。隣の【聖女】にこづかれ、先輩に睨まれる。ごめん。
それでも笑いは止まらなかった。胸の奥がポカポカ温かかった。
「……行くぞ」
レオンがリリスの肩に手をかける。
「ここで騒いでも無駄だ」
「でも――」
「行くぞ」
リリスは唇を噛みしめ、子供たちの手を引いた。二人は最後に私を睨みつけると、背を向ける。
これが永遠の別れになってくれることを私は願った。
そういう願いは叶わないものだと知っていた。
夜遅くになって、ようやく身体が空いた。
寝泊まりするための天幕の裏手に泉がある。そこで器具と、手足を洗っていた。酷使された紋章が、左手の甲で抗議するように弱々しく光る。私はいたわりをこめてそこを拭い、手を揉んだ。と、大きな手が横合いから伸びてきて両手ごと包まれる。
「平気か?」
シュトラウスは低い優しい声で言い、私の両手をぎゅっと包んだ。抱きしめられている気分だ。私はうっとり目を閉じて、隣の彼の身体に身を任せる。
「ええ。本当に、なんともないのよ。もう、関係のない人たちだもの」
赤い光が二人ぶんの両手に優しく赤く広がっていく。水面に反射するさまは、水の中で炎が燃えているようだろう。
「ちょっと!」
という無粋な足音と声がしたのは、だから、心底迷惑だった。
シュトラウスが俊敏に立ち上がって私の前に出る。私ももたもた立ち上がる。眩暈がしそうだった。
父、母、リリス、レオン。
役者勢ぞろいである。
「手出ししないで。私が、話すわ」
と私は後ろからシュトラウスに囁き、前へ出た。夫は納得していない様子だったが、黙ったまま頷いてくれた。
「……何か御用ですか?」
硬い声が出たのは許されたい。何しろ一日働いて本当に疲れていたのだから。
夜の冷気の中、四人の顔は幽霊のように白く浮かんで見えた。光源はテントから漏れる灯りのみ、だから余計にうらびれて見えるのだろうか? あるいは、昼間とは違い、取り繕う余裕もないのかも。
泥と疲労にまみれたその姿は、かつて私が知っていた家族の姿ではなかった。かつてあんなに強大で、怖かったのに。
「エレノア!」
最初に声を張り上げたのは母だった。
「やっと見つけたわ! 今までどこにいたの? いったいどういうつもりなの、いきなりいなくなるなんて! お兄様がどれだけ悲しんだと思う? 家族に向かってよくもあんなことできたわね!」
「家族?」
はて。私は首を横に振る。自分でもびっくりするほど静かな声が出た。すぐ横にシュトラウスがいて、見守ってくれているとわかっているからこそできたことだったのかもしれない。
母は言葉を失う。父が眉をひそめ、チッと舌打ち。
「ふざけるな。お前はヴァルディア家の娘だ。その自覚も忘れたか」
「忘れました」
即答である。
「そういえば、お兄様はどうなさったんですか?」
「話を逸らすな!」
「ああ、そういうこと。――金策に出られておいでなのですね。確かにこれほどの災害、ヴァルディア家では復興費用を賄えませんし、レオン殿の商会であっても無理でしょう。お国の支援に頼るほかありませんわねえ」
くすっと笑ってやると、レオンが顔を真っ赤にして口をはくはく開閉させた。母はきいいいいいっと呻いて頭を掻き毟り、リリスは顔をひん曲げて吐き捨てる。
「お姉様のくせに、隣に男がいるからイキッてる。きも」
父が必死に怒気を抑えながら低く言う。
「いいから、隣の夫とやらも一緒でいいからひとまずこっちに来い。家族として話し合おうじゃないか。領地の危機なのだ。お前ごときが本当に【聖女】だなどと信じたわけではないが、神殿にいるというなら使える伝手のひとつやふたつあるだろう……」
「家族ですって?」
私はまっすぐ彼らを見た。
もう視線を逸らす必要はなかった。
「私があの家にいたとき、誰一人として私を家族として扱わなかったのに。都合のいいときだけ家族だなんて、便利な言葉ですわね」
母が奇声を発して隣の父を殴った。何度も。この人はいつもこうで、行き詰った状況になると自分より弱いとみなした者に八つ当たりする。昔は私がその役目だった。
リリスが金切り声で叫び始める。
「なによその言い方! アタシたちが困ってるの、わかってるでしょ!?」
ようやく本題か、と私は思った。
「洪水で領地はめちゃくちゃ、屋敷も半壊! 使用人も逃げたのよ! 食料だって――」
「だから?」
「だからじゃないわよ!」
リリスは一歩踏み出す。
「アンタ【聖女】なんでしょ!? だったら助けなさいよ! 家族なんだから当然でしょ!」
その言葉に、シュトラウスの気配が一段低く沈んだのがわかった。
私は手を振った。
「嫌よ」
「……は?」
レオンが間の抜けた声を出した。
「私がここにきたのは【聖女】としての仕事のため、神殿の一員として国に奉仕するため。私の癒しの力を必要として、順番を守って列に並んでくれる人たちがいるのよ。家を失った人、家族を亡くした人、何日も食べていない人。助けを必要としている人たちよりあなたたちを優先する理由なんて一つもないわ。伯爵家だというなら貴族らしく、貴族の伝手を辿って支援を願ったら?」
「お前……!」
レオンの顔が真っ赤を通り越してドス黒く染まった。
「昔のことをまだ根に持ってるのか!? もうすんだことなのに、いつまでもネチネチと……!」
「何を勘違いしているの? あなたのことなんてなんとも思っていないのよ。そりゃ、昔あなたとリリスにされたことには傷ついたけれど。それこそすんだことだわ」
私は深いため息をつき、シュトラウスの腕をきゅっと掴む。
「あなたたちに何を言われても、何も感じないの」
か細い悲鳴をあげ続ける母から距離を取ったリリスが、顔を上げ私を睨む。
「アタシに負けたからって屁理屈言ってる……!」
「勝ちも負けもないわ。そもそも【聖女】とただの商会夫人じゃ立場が違うでしょう」
そうとも。ヴァルディア伯爵家、もはや称号しか残っていないあの零落した家は兄が継ぐのだ。神の所有物である【聖女】とただの一平民の妻。比べようがない。
リリスの唇が震える。
「そ、そ、そんなのってズルい……!」
「ズルい?」
思わず笑ってしまった。
「アンタなんかが……! お姉様なんかが、【聖女】!? やっぱりおかしいって! アンタを調べた神官が手抜きしたんだわ。きっとそう!」
リリスはそういうと、シュトラウスへ向かって訴えかけた。
「ねえ、いっぺん神殿に戻ってちゃんと調べるように言ってよ! あなたも騙されてるのよ、気づかない!? お姉様はね、いつだっておうちの中でアタシたちをひがんでた。性根が歪んでるのよ。生まれつきおかしいの。大ウソつきなのよ!」
「そう言って、あなたは私から全部奪ったわね。夫も仕事も居場所も」
――憎しみと恨みは凪いでいる。けれど、まだある。私の中に、少しでも対応を間違えれば今すぐ燃え上がるだけの温度で、ある。それがわかってよかった。
「自分で選んだ結果が今なんだから、自分で責任を取りなさい」
風が吹き始めて光が揺らいだ。
父と母はもはや互いに殴り合っていたのだが、同時にぴたりと手を止めて口々に唸る。
「後悔するぞ」
「親を見捨てるなんて!」
「後悔、しませんわ。あなたたちと関わらない人生の方が、ずっと幸せよ」
「神に罰されよ!」
「なんて冷たい子なの……っ」
「そう育てたのはあなたたちよ」
シュトラウスの温かい大きな手が私の肩を包んだ。怒りはなく、ただ心の中は静かだった。
「もういいだろ」
シュトラウスが黒髪をかきあげて私に笑いかける。
「これ以上は時間の無駄だ、エレノア。早く戻ろう」
「ええ。そうしましょう」
私たちが連れ立ってその場を離れる間、後ろではまだ彼らが何かを言っていた。言葉の一片も耳に入ってこなかった。
そうなれてよかったと思った。
***
救援活動は続いた。人々は救済され、別の土地へ移住し、あるいは何も言わず姿を消した。人がいなくなることで復興の手は遅くなり、土地の状況は日に日に悪化していった。
もともと無理な領地経営をしていたのだろう。洪水をきっかけに、綻びが一気に表に出たのだ。身から出た錆である。
倉庫の穀物は水に浸かり腐敗。
商人たちは支払いの遅延を理由に取引を停止。
他の貴族に助けを求めようにも、どこも手一杯。
そもそも評判が悪い没落伯爵のこと、優先して助けてくれるあてはない。
そうしているうちにも、借金の取り立ては容赦なく――。
半年、ヴァルディア家はもたなかった。
国は無情にも爵位の返還を要求した。
理由は――領地管理能力の欠如および多額の負債、およびそれに伴い貴族の名誉を損なったこと。
形式上は自主的な返還とされたが、実質的には爵位剝奪である。
屋敷は差し押さえ。
使用人は離散し、中には洪水のせいで帰る村が失われた者もいた。
財産は借金の返済に消えた。
父母は国が経営する養老院に入ったが、ろくな寄付金もない者に管理者が温かく接するはずはない。あとは死を待つばかりの日々だろう。
レオンとリリスは離婚。
レオンはまだ残る借金の返済のため、鉱山で働く最下層の鉱夫となった。
リリスは子供たちを理由に最後まで家に居座ろうとして、借金取りに追いかけられ身ぐるみ剥がされてしまった、という。
それを聞いたとき、私はまだヴァルディア家の近くにいた。仕方なく、シュトラウスと共にその場に出向き、事情を説明して子供たちを引き取った。
妹の顔は見なかった。だから、借金のかたにされたリリスがどんな娼館に売られたか、どんな目に遭うのか考えなくてすんだ。
三人の甥と姪を神殿の指揮下にある小さな孤児院で面倒見てもらえるようにしたことを、リリスが知っているといいのだけれど。
***
以上が私と元家族がかかわった最後のやり取りである。
義理は果たした、と思う。少なくとも私の人生について、子供たちにはなんの罪も責任もないのだもの。
「幸せになれるかしら、あの子たち」
「さあ?」
私のひとり言に、シュトラウスは頬杖をつく。
「自分次第だろう、どんなときでも、誰だって」
「そうね」
静かな夜だった。救援活動の最後の後始末が終わり、明日には神殿に向かう帰郷の旅が始まる。早く寝ておかなくちゃ、ということはわかっているのだけれど、目がさえて二人とも寝付けないでいた。
「君の、呪いだけどな」
夫がぽつんというので、私は眉を寄せる。どこかで聞いたこと、あるような言葉だ……。
「覚えてないか? 初めて会ったとき、言ったろう。俺はそういうことによく勘が強いんだ」
と、彼は笑った。ああ――そういえば、そんな会話を交わした気もする。
「懐かしいわね」
私は顔をほころばせた。テントの中は温かく安全で、夜には月明かりが満ちている。
「君に呪いをかけたのはおそらく母親だ。無意識に、だろうがな」
「そう……」
私は顔を伏せる。シュトラウスは続ける。
「おそらく彼女は君のことを娘ではなく、自分より若い女として見ていた。そして妹のことは自分の分身だと思っていた。【聖女】は非常に生存本能が高い女性に発現する紋章だ。君は母親の嫉妬から身を守るため、生き残るため紋章を自主的に封印した。あの土地にいる限り、君は息を殺すことで生きようとしていたんだ。そしてあそこを出たから、覚醒し【紋章持ち】となった」
「そういえば、ヴァルディア家は、古くは魔法使いの家系だわ。没落するずっと前は著名な【聖女】も【勇者】もいたわ」
「血筋は、母方なのか?」
「父母はいとこ同士だったの。ええ、どちらもヴァルディア家の血筋よ」
「それでか。……納得した。無意識の呪い。無意識の嫉妬。君はそういうものから君自身を守り抜いたんだな」
彼はそっと手を伸ばし、私の手を取ると口づける。左手の甲の紋章に、熱が広がった。
「敬服するよ、俺の【聖女】」
「ふふふ……」
私は悲しく笑う。二度と手に入らない。かつても、これからも得ることはできないものを懐かしく振り返る。未練はない。ないはずだ。そうでなくては。前を向かなくてはね。
それから神殿に帰り、またいつもの日々が始まった。
ふらりと兄が現れたのは一年後のことだった。
「やーあ、元気そうじゃないの」
とヘラヘラ笑う男が兄だとは一瞬、気づかず、危うく警邏兵を呼ぶところだった。
くすんだ肌。落ちくぼんだ目の下の濃い隈。げっそりと痩せた身体。かつてヴァルディア家の若様であった面影はどこにもない。
「反省したか、エレノア?」
と彼はにやにやする。
「お前のせいでヴァルディア家は滅びたんだ。レオンの商会もな。お前がいつまでもくだらない意地を張ってリリスを憎み続けたせいで。お前が助けてさえいれば、俺は故郷を失わずにすんだのに」
「お兄様、酔ってますわね」
私はほろ苦く笑った。
昨年、復興のための金策へ出かけていたはずの兄は領地の惨状を聞いて、遠く、遠くへ逃げ出したのだ。勉強も運動もろくにやってこなかった人だから、逃げたからといってまともに身を立てられるはずはない。結局、こんな有様になって現れた。
「何偉そうに言ってんだ? なあ? いい加減許してやりなさいよ。お前が憎み続けるせいでリリスはかあいそうに――」
「俺がやってもいいか?」
シュトラウスがそっと私を後ろに押しのけた。
「なあ、いいだろう? 少しくらい役に立たせてくれよ、エレノア」
私は笑って首を傾げた。夫にすべてを任せ、家の中に引っ込む。
何だお前はどっから出てきた妹を出せよ、あっ、おい何しやがるやめ――
ばきっ。ごきっ。どかん。
派手な音とともに、隣近所からわらわら人が出てきてやんややんやと囃し立てる声が加わった。
おー、シュトラウスさんいけいけ、やっちまえ。そこだっ、右ィ! 入ったあ!――と騒いでいるのは隣の隣のおじさんだし、よっしゃーやっちゃえー! とピイピイ姦しいのは坂の下の仕立て屋の三人娘。
ずーっと聞いてたよう、そんなクズとっとと簀巻きにしちまいなあ、とパン屋のおかみさんは気勢を上げるし、ぶっ飛ばせーたいちょー! と声を合わせるのは聖騎士見習いでまだ神殿に住めない少年たちだ。
「やれやれ」
私はお腹を抑えながら台所に向かった。
シュトラウスがぼこぼこにした兄を警邏兵の詰め所に突き出して、ついでに何もかも心得た斜め向かいの商人ギルド会計係のおばさんが借金取りたちに連絡してくれて、残るみんながワイワイ感想を話している間に、クッキーでも焼いてしまおう。それから配って、みんなで食べて、全部忘れて、はい終わり。
お腹の中から赤ちゃんがぽこっと蹴ってくるので、この子も賛成してくれているみたいだ。
うん、いいね。それで行こう。
「妹のこと? ええ、もちろん。もう許してやっておりますよ、お兄様」
くすっ。
窓の外で鼻血を吹いて逃げ惑う兄を観察しながら、私は小麦粉の袋を手に取った。シュトラウスが追いついて、見事な背負い投げ。兄の悲鳴と骨が折れる音。
それは過去から私に贈られるファンファーレ。
もうすぐ、私は何もかもから解放される。
そろそろ、何も憎まずただ愛するものを愛するだけの日々を生きられるだろう。




