第38話 父と娘
翌朝、私は早くに目を覚ました。
窓の外はまだ薄暗い。でも、眠れなかった。今日、国王陛下に謁見する。七年前に私を救ってくれた方に、ようやくお礼を言える。
静かにベッドを抜け出し、窓辺に立った。東の空が少しずつ白み始めている。故郷の夜明け。七年ぶりに見る光景だ。
「起きていたのか」
背後から声がして振り向くと、アレクセイが身を起こしていた。
「ごめんなさい、起こしてしまったわね」
「いや、いい。眠れないのか」
「少し緊張しているみたい」
アレクセイがベッドから降り、私の隣に立った。
「国王への謁見か」
「ええ。七年前のこと、ちゃんとお礼を言いたいの」
「君らしいな」
夫が私の肩を抱いた。その温もりに、少しだけ緊張がほぐれた。
「大丈夫だ。君なら、きちんと伝えられる」
「そうね」
私たちは並んで窓の外を見つめた。空が次第に明るくなり、鳥のさえずりが聞こえ始める。
新しい一日が始まろうとしていた。
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朝食の後、私は父と二人で庭園を歩いた。
アレクセイとカタリーナは屋敷に残っている。謁見の前に、父と話しておきたいことがあった。
「父上、お聞きしたいことがあるの」
「何だ」
「母のことよ」
父の足が一瞬止まった。すぐに歩みを再開したが、その表情には複雑な色が浮かんでいる。
「エリザベートのことか」
「ええ。母の日記を読んだわ。父上が送ってくださった」
「そうか」
「母も、魔道具を研究していたのね。知らなかった」
父は深く息をついた。
「エリザベートは、時代に先駆けた人だった。女性が学問に携わることが珍しかった時代に、彼女は独学で魔道具を研究していた」
「父上は、それを知っていたの」
「ああ。婚約前から知っていた。むしろ、それが彼女に惹かれた理由の一つだ」
父の目が遠くを見つめた。
「最初に会った時、彼女は舞踏会で魔道具の話をしていた。周りの令嬢たちは退屈そうにしていたが、私は夢中で聞いていた。こんな面白い女性がいるのかと」
「父上も、魔道具に興味があったの」
「多少はな。だが、エリザベートほどの才能はなかった。私はただ、彼女の話を聞くのが好きだっただけだ」
父が立ち止まり、庭の花を見つめた。
「結婚してから、彼女には自由に研究をさせた。社交界の目もあったから、表立っては活動できなかったが、屋敷の中では好きなようにさせていた」
「母の工房があったのね」
「ああ。今はもう片付けてしまったが、かつては地下に小さな工房があった。お前が生まれてからも、彼女は暇を見つけては研究を続けていた」
私は黙って父の話を聞いていた。知らなかった母の一面が、少しずつ明らかになっていく。
「お前が魔道具に興味を持ち始めた時、エリザベートはとても喜んでいた。自分の才能が娘に受け継がれたと」
「母が、そんなことを」
「ああ。彼女は、お前に全てを教えるつもりだった。でも、その前に病に倒れてしまった」
父の声が震えた。
「エリザベートの最期の言葉は、お前のことだった。リーゼロッテを頼む、と。彼女の才能を守ってやってくれ、と」
「父上……」
「私は、その約束を守れなかった」
父が振り返り、私を見つめた。
「七年前、お前が断罪された時、私は何もできなかった。エリザベートの才能を継いだ娘を、守ることができなかった」
「それは違うわ」
私は父の手を取った。
「父上は、私を守ってくれた。あの夜、大使館に送り届けてくれたでしょう。あれがなければ、私は今ここにいない」
「だが」
「母も、きっと感謝しているわ。父上のおかげで、私は母の研究を完成させることができた。母の名前を、歴史に残すことができた」
父の目に涙が浮かんだ。
「お前は、本当にエリザベートに似ている。優しすぎるところも、前向きなところも」
「母の娘だもの」
私は微笑んだ。父も、涙を拭いながら笑った。
「そうだな。お前は、エリザベートの娘だ」
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庭園の奥に、小さな東屋があった。
私たちはそこに腰を下ろし、しばらく黙って庭を眺めた。花々が朝日に輝き、蝶が舞っている。
「父上、もう一つ聞いてもいい?」
「何だ」
「ルドヴィクから、手紙が届いたの」
父の表情が固くなった。
「あの男から?」
「ええ。謝罪の手紙だった。七年間、自分の罪と向き合っていたと」
「それで、お前はどうするつもりだ」
「わからない。でも、会ってみようかと思っているの」
父が眉をひそめた。
「会う必要があるのか。あの男は、お前に酷いことをした」
「わかっているわ。でも、このまま何も解決しないのは、嫌なの」
私は父の目を見つめた。
「七年前のこと、私は確かに傷ついた。でも、それをいつまでも引きずっていたくない。過去を清算して、前に進みたいの」
「清算か」
「ええ。許すとか許さないとか、そういう問題じゃない。ただ、区切りをつけたいの」
父は長い間黙っていた。やがて、深く息をついた。
「お前がそう決めたなら、私は止めない。だが、一つだけ約束してくれ」
「何を」
「辛くなったら、すぐに帰ってこい。無理をする必要はない」
「ありがとう、父上」
私は父の手を握った。温かくて、大きな手。幼い頃、この手に引かれて歩いた。
「父上」
「ん?」
「私、幸せよ。本当に」
父が優しく微笑んだ。
「わかっている。お前の顔を見ればわかる」
「カタリーナにも、会わせたかったでしょう」
「ああ。可愛い孫だ。エリザベートに見せたかった」
「母も、きっと見ているわ。どこかで」
私たちは空を見上げた。青く澄んだ空に、白い雲が流れている。
母がいた頃と、同じ空。変わらない空の下で、私たちは今も生きている。
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屋敷に戻ると、カタリーナが庭で遊んでいた。
花壇の周りを走り回り、蝶を追いかけている。その姿を見て、父が目を細めた。
「元気な子だな」
「ええ。私の子供の頃にそっくりだと言われるわ」
「確かに似ている。お前も、あのくらいの歳の頃は庭を駆け回っていた」
「覚えているの」
「忘れるものか。エリザベートと二人で、お前を追いかけ回したものだ」
父の声には、懐かしさが滲んでいた。
カタリーナが私たちに気づいて、駆け寄ってきた。
「お母様、おじい様。見てください、蝶がたくさんいます」
「そうね、きれいね」
「おじい様、この庭にはどんなお花があるんですか」
「そうだな、教えてやろう。ついてきなさい」
父がカタリーナの手を取り、花壇の方へ歩いていった。孫に花の名前を教える祖父の姿は、とても微笑ましい。
アレクセイが私の隣に来た。
「良い光景だな」
「ええ。父も嬉しそう」
「君も、嬉しそうだ」
「そうかしら」
「ああ。帝国にいる時より、穏やかな顔をしている」
私は夫を見上げた。
「故郷だからかもしれないわね。やっぱり、特別な場所なのよ」
「そうか」
「でも、私の家は帝国よ。あなたとカタリーナがいる場所が、私の家」
アレクセイが微笑んだ。
「帰ったら、またいつもの日常だな」
「ええ。でも、その前にやるべきことがあるわ」
「国王への謁見か」
「そうよ。午後からね」
私は空を見上げた。太陽は既に高く昇っている。謁見の時間まで、あと数時間。
「行ってくるわ。王宮へ」
「俺も一緒に行く」
「ありがとう」
私たちは手を取り合い、屋敷の中に戻った。
午後の謁見に向けて、準備を始めなければならない。七年前の恩人に会うために。




