第34話 王国からの知らせ
父への手紙を送ってから、十日が過ぎた。
その間も研究所での仕事は続き、カタリーナへの指導も始まった。娘は約束通り週に三日、研究所に通ってくる。基礎理論から始めて、魔力の性質、素材の特性、簡単な構造の組み立て方。七歳の子供には難しい内容もあるが、カタリーナは真剣に取り組んでいた。
「お母様、この素材とこの素材を組み合わせると、どうなりますか」
「試してみなさい。失敗しても構わないから」
「はい」
娘が慎重に素材を組み合わせる。小さな火花が散り、カタリーナが驚いて手を引っ込めた。
「わあ」
「大丈夫?」
「はい。でも、びっくりしました」
「魔力を帯びた素材同士は、相性が悪いと反発するの。今のは軽い反発だったけれど、組み合わせによっては危険なこともある。だから、素材の特性を覚えることが大切なのよ」
「はい、わかりました」
カタリーナが真剣にノートに書き込む。その横顔を見ながら、私は微笑んだ。
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昼過ぎ、マルタが工房に顔を出した。
「皇后陛下、ローゼンベルク伯爵様からのお手紙が届いております」
「父から?」
私は作業の手を止め、封書を受け取った。見慣れた家紋と、父の筆跡。十日前に送った手紙への返事だろう。
「カタリーナ、少し休憩しましょう」
「はい」
娘を休憩室に送り出してから、私は封を開けた。
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『リーゼロッテへ
手紙を受け取った。王国の状況について、私も憂慮している。
国王陛下の病状は、お前が聞いた以上に深刻らしい。医師団も手を尽くしているが、回復の見込みは薄いという。後継者問題も混迷を極めており、貴族たちの間では様々な思惑が渦巻いている。
シュトラウス伯爵が帝国を訪れたのは、王国政府の総意ではなく、一部の良識派の判断だろう。彼らは王国の安定を第一に考えている。
私に助言を求めているとのことだが、正直なところ、私一人の力でどうにかなる問題ではない。ただ、お前の存在は大きな意味を持つかもしれない。
一度、王国に戻ってこないか。
帝国皇后としてではなく、ローゼンベルク家の娘として。故郷を訪れ、自分の目で状況を見てほしい。そして、できることがあれば力を貸してほしい。
もちろん、これは強制ではない。お前には帝国での生活がある。カタリーナもいる。無理にとは言わない。
ただ、お前の母も、きっと同じことを願っただろうと思う。
父より』
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手紙を読み終え、私はしばらく動けなかった。
王国に戻る。七年前、逃げるように去った祖国に。
複雑な感情が胸の中で渦巻いている。懐かしさ、不安、そしてかすかな恐れ。あの国には、辛い記憶がある。断罪の夜、冷たい視線、囁かれた悪口。全てが昨日のことのように思い出せる。
でも同時に、温かい記憶もある。父との日々、母の面影が残る屋敷、幼い頃に遊んだ庭園。それらもまた、私の一部だ。
「皇后陛下」
マルタの声に顔を上げた。
「お顔の色が優れませんが」
「大丈夫よ。少し、考えることがあって」
「伯爵様から、何か」
「王国に戻ってこないかと言われたの」
マルタの表情が微かに変わった。彼女は私が王国でどのような扱いを受けたか、よく知っている。
「陛下は、どうなさりたいのですか」
「わからない」
正直に答えた。わからないのだ。戻りたいような、戻りたくないような。七年という時間は、傷を癒やすには十分だったはずなのに、まだどこかで痛みが残っている。
「アレクセイ様に相談なさってはいかがでしょう」
「そうね。そうするわ」
私は手紙を懐にしまい、立ち上がった。
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夕刻、執務を終えたアレクセイと二人で庭園を歩いた。
春の花々が咲き誇り、甘い香りが漂っている。カタリーナは夕食前の自由時間を使って、自室で今日の復習をしているはずだ。
「父から手紙が来たの」
「何と」
「王国に戻ってこないかと」
アレクセイが足を止めた。私も立ち止まり、彼の顔を見上げた。
「どう思う?」
「俺の意見が聞きたいのか」
「ええ」
アレクセイは少し考えてから、ゆっくりと口を開いた。
「俺は、君が決めるべきだと思う」
「それだけ?」
「君の故郷だ。君の家族がいる。俺がとやかく言うことじゃない」
「でも、私は帝国の皇后よ。私の行動は、帝国にも影響する」
「そうだな」
アレクセイが私の手を取った。
「だが、君は皇后である前に、一人の人間だ。故郷に複雑な感情を持つのは当然のことだ。無理に決める必要はない」
「でも、国王陛下の病状は深刻らしいわ。あまり時間がないかもしれない」
「だとしても、君が望まないなら行く必要はない。王国の問題は、王国が解決すべきことだ」
私は黙って夫の顔を見つめた。彼の言葉は正しい。王国の後継者問題に、帝国皇后が口を出す筋合いはない。
でも。
「父は、母も同じことを願っただろうと書いていたわ」
「お母上が?」
「母は王国で生まれ、王国で死んだ。あの国を愛していた。私も、かつては愛していた」
「今は?」
「わからない。でも、嫌いではないと思う。辛い思い出もあるけれど、それだけじゃない」
アレクセイが私を抱き寄せた。
「君が行きたいなら、俺も一緒に行く。カタリーナも連れて行こう。家族で、君の故郷を訪れよう」
「いいの?」
「当然だ。君一人で行かせるわけがない」
その言葉に、胸の奥が温かくなった。一人じゃない。家族がいる。
「少し、考えさせて」
「ああ。急がなくていい」
私たちは手を繋いだまま、庭園を歩き続けた。夕日が西の空を染め、花々が金色の光に包まれている。
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その夜、私は眠れなかった。
ベッドの中で天井を見つめながら、様々なことを考えた。王国のこと、父のこと、国王のこと。そして、あの国に残してきた全てのこと。
七年前、私は手紙を書き続けていた。届かない手紙を、それでも書き続けていた。あの頃の私は、孤独だった。誰にも理解されず、誰にも愛されていないと感じていた。
今は違う。アレクセイがいる。カタリーナがいる。マルタがいる。たくさんの人に支えられて、私は生きている。
だから、もう大丈夫なのかもしれない。
あの国に戻っても、もう傷つかない。もう、逃げる必要はない。
「お母様?」
小さな声に振り向くと、カタリーナがドアの隙間から顔を覗かせていた。
「どうしたの。眠れないの?」
「お母様が起きている気がして」
娘がベッドに近づいてきた。私は布団を持ち上げ、隣に招いた。カタリーナが潜り込んできて、私の腕の中に収まる。
「お母様、何か考えていたんですか」
「ええ、少しね」
「何を?」
「王国のことよ。お母様が生まれた国」
「行くんですか?」
娘の問いに、私は少し驚いた。
「どうしてそう思うの?」
「お父様が言っていました。お母様が悩んでいるって。王国に行くかどうか」
「そう。お父様、おしゃべりね」
「私も行きたいです」
カタリーナが私を見上げた。
「おじい様に会いたいです。お母様の生まれた国も見てみたいです」
その純粋な目を見て、私は微笑んだ。
「そうね。一緒に行きましょうか」
「本当ですか!」
「ええ。家族みんなで」
娘が嬉しそうに笑った。その笑顔を見ていたら、心が決まった気がした。
王国に行こう。父に会い、国王陛下に会い、そして自分の目で状況を確かめよう。
七年ぶりの帰郷。それは、過去と向き合うことでもある。
でも、もう恐れない。私には、家族がいるから。




