第3話 七年分の請求書
晩餐会の翌日、私は父の書斎にいた。重厚な樫の机、壁一面の本棚、窓から差し込む朝の光。幼い頃から何度も訪れた場所なのに、今日は少し違って見える。
「七年条項の詳細を、改めて確認したい」
父——ハインリヒ・ローゼンベルク侯爵は、銀髪交じりの金髪を掻き上げながら頷いた。左頬の古い傷跡が、窓の光で白く浮かぶ。
「そうだな。お前も、もう子供ではない」
父が机の引き出しから、古びた羊皮紙の束を取り出した。七年前の婚約契約書だ。
「第十七条。『婚姻が七年以内に成立しない場合、被婚約者側からの一方的破棄申請を認める』——これは、お前も知っているな」
「ええ。卒業式で使いました」
「問題は、その続きだ」
父が羊皮紙をめくり、該当箇所を指差した。
「『かつ、婚約維持に要した費用の返還を請求できる』」
私は目を見開いた。費用の返還?
「七年間、お前は王太子妃候補として振る舞ってきた。社交界への参加費用、王家行事への献上品、衣装代、待機に伴う機会損失——すべて、侯爵家が負担してきた」
父の声は淡々としている。でも、その目には静かな怒りが宿っていた。
「これらの費用を、王家に請求する権利がある。契約に基づく、正当な権利だ」
私は、しばらく言葉を失った。七年分。衣装代だけでも、相当な額になる。社交費、献上品、教育費用——すべてを合算すれば、侯爵家の年収に匹敵するのではないか。
「……父上は、最初からこれを狙って条項を入れたのですか」
「狙ったわけではない」
父が首を振った。
「お前の自由を守るための保険だった。七年経っても婚姻が成立しないなら、それは王家の誠意がないということだ。その場合に備えて、退路を用意しておきたかった」
父の目が、まっすぐに私を見る。
「結果として、その保険が必要になった。それだけのことだ」
私は、深く息を吸った。復讐ではない。これは、正当な権利の行使だ。七年間、私が失ったものの対価を、取り戻すだけ。
「請求書を、作成します」
父が、かすかに微笑んだ。
* * *
請求書の作成に取りかかって数時間後、侯爵邸に予期せぬ来客があった。
「王太子殿下がお越しです」
執事の報告に、私は眉をひそめた。アポイントメントはない。つまり、押しかけてきたということだ。
応接室に向かうと、王太子殿下が苛立たしげに立っていた。金色の髪が乱れ、緑の瞳に焦りの色が浮かんでいる。
「リーゼロッテ」
名前を呼び捨てにされた。婚約が解消された今、それは無礼にあたる。でも、指摘する気にもならない。
「殿下。本日はどのようなご用件でしょうか」
「昨夜の晩餐会のことだ。お前、なぜあの場で出しゃばった。ミレーヌの顔に泥を塗るつもりか」
出しゃばった。私は内心で苦笑した。魔道具が暴走して、帝国大使が危険にさらされていたのに。放置していたら、どうなっていたと思っているのだろう。
「大使閣下がお怪我をされる可能性がありました。外交問題を避けるための、応急処置です」
「そんな言い訳が——」
「言い訳ではありません。事実です」
私は殿下の言葉を遮った。もう、この方に遠慮する必要はない。
「それより、殿下。本日お越しになったのは、それだけですか」
「……婚約解消届を取り消せ」
予想通りの言葉だった。
「お前の技術は、王国に必要だ。昨夜の件で、それがわかった。あの程度の魔道具を瞬時に直せる人間が、どれだけいると思っている」
「私は王国の技術者ではありません。ただの侯爵令嬢です」
「だからこそだ。お前が王太子妃になれば、その技術を王家のために——」
「お断りします」
きっぱりと言い切った。
「婚約解消届は、七年条項に基づく正当な手続きです。取り消す理由がありません」
殿下の顔が、みるみる赤くなっていく。
「理由がない、だと? お前はまだ俺の——」
「殿下」
背後から、父の声がした。いつの間にか、書斎から出てきていたらしい。
「娘との婚約は、すでに解消されております。『まだ俺のもの』という発言は、事実に反します」
殿下の顔が歪んだ。侯爵相手には、さすがに強く出られないらしい。
「……金の話など下品だ」
突然、殿下がそう吐き捨てた。私の手元にある書類——請求書の下書きが目に入ったのだろう。
「まさか、金を要求するつもりか。卑しい女だ」
私は、静かに請求書を差し出した。
「こちらが明細です。ご確認ください」
殿下が書類を受け取り、目を通す。数秒後、その顔から血の気が引いた。
「な……これは……」
「七年分の婚約維持費用です。衣装代、社交費、献上品、待機に伴う機会損失——すべて、契約書に記載された算定基準に基づいて計算しております」
殿下の手が震えている。総額を見たのだろう。侯爵家の年収に相当する金額を。
「払えというのか」
「契約に基づく正当な請求です。お支払いいただけない場合は、王立裁定院に申し立てます。契約書は王家も承認したものですので、手続きに問題はないかと」
殿下が、何かを言おうとした。でも、言葉が出てこない。「下品」と罵った相手に、法と契約で反論される。それがどういう意味か、殿下もようやく理解し始めたようだった。
「……覚えておけ」
それだけ言い残して、殿下は踵を返した。応接室を出ていく背中が、どこか小さく見えた。
父が、私の隣に立った。
「よくやった」
短い言葉。でも、それだけで十分だった。
* * *
その夜、帝国大使館から招待状が届いた。
「発明品の商談について、ご相談したい」——そう記されていたが、本当の目的は別にあるのだろう。私がL・Rだと知っているアレクセイ陛下が、わざわざ「商談」という名目を使う理由がない。
大使館の小サロンに通されると、陛下がすでに待っていた。黒髪に紫の瞳。今夜は軍服ではなく、シンプルな黒のベストに白いシャツ。皇帝というより、どこかの技術者のような出で立ちだ。
「来てくれたか」
「お招きいただきましたので」
「堅苦しい挨拶は抜きにしよう。今夜は公務ではない」
陛下がテーブルを示した。そこには紅茶のセットと、いくつかの魔道具が並んでいる。見覚えのある品々——私が設計した「L・R」の製品だ。
「これは……」
「俺のコレクションだ。七年前から集めている」
陛下が、どこか誇らしげに言った。
「自動翻訳イヤリング、温度調節マント、浄水フィルター。どれも帝国で正規購入したものだ。君の作品は、効率と美しさを両立させている。初めて手に取った時から、製作者に会いたいと思っていた」
私は、言葉を失った。七年間。私が一人で発明を続けていた、その同じ期間——この人は、私の作品を集めていた。
「……なぜ、そこまで」
「技術者として、純粋に興味があった。君の発明は、魔力量ではなく効率で勝負している。大量の魔力を持つ者が有利なこの世界で、それは革新的な発想だ。誰がこれを作っているのか、ずっと知りたかった」
紅茶が注がれる。陛下が自ら、私のカップに注いだ。皇帝が給仕をする——普通ならありえない光景だ。
「君の発明の話を、もっと聞かせてくれ」
その言葉に、私の中で何かが弾けた。七年間、誰にも話せなかった。発明のこと、設計の苦労、成功した時の喜び。婚約者は興味を示さず、社交界では「働く令嬢」は奇異の目で見られた。
でも、この人は——違う。
「……朝まででよろしいですか?」
気づけば、そう言っていた。陛下が、かすかに目を見開いた。そして——笑った。初めて見る、本当の笑顔だった。
「構わない。紅茶は十分にある」
その夜、私たちは朝まで語り合った。魔法陣の効率化について。素材の選定基準について。失敗作の話、成功作の話、まだ誰にも見せていない構想の話。陛下は、私の話に身を乗り出して聞いてくれた。質問は的確で、時に鋭い指摘もあった。技術者同士の対話。それが、こんなにも心地よいものだとは知らなかった。
窓の外が白み始めた頃、私はようやく我に返った。
「……すみません、つい」
「謝る必要はない。久しぶりに、退屈しない夜だった」
その言葉が、なぜか胸に残った。
* * *
侯爵邸に戻ったのは、朝の七時過ぎだった。部屋に入ると、マルタが心配そうな顔で待っていた。
「お嬢様、お帰りなさいませ。お疲れではありませんか?」
「少し眠いけれど、大丈夫よ」
着替えを手伝ってもらいながら、私はぼんやりと昨夜のことを思い返していた。あんなに話したのは、いつ以来だろう。母が亡くなってから、ずっと——
「お嬢様」
マルタの声で、意識が戻る。
「社交界で、噂が流れ始めているようです」
「噂?」
「はい。『L・Rの正体は誰だ』と。昨夜の晩餐会で、お嬢様が魔道具を直されたことが話題になっているようで……『あの晩餐会で魔道具を直した令嬢がいたらしい』『もしかして、あの人がL・Rなのでは』と、囁かれているとか」
私は、息を呑んだ。正体が、露見しかけている。七年間、隠し通してきた秘密が——今、崩れようとしている。
「……そう」
私は、窓の外を見た。朝日が、王都の街並みを照らしている。隠し続けることは、もうできないかもしれない。
でも——それは、本当に悪いことなのだろうか。
『君の技術は、厚遇に値する』
昨夜のアレクセイ陛下の言葉が、耳に蘇る。七年間、私は隠れて発明を続けてきた。誰にも認められないまま、一人で。でも、もう——隠れる理由が、なくなりつつある。
「マルタ。父上に伝えて。少し、考えたいことがあると」
何かが、動き始めている。私の意思とは関係なく、世界が回り始めている。
なら、私は——その流れに、自分から乗ってみようか。
待つのは、もう終わり。今度は、自分から動く番だ。




