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婚約七年目、悪役令嬢は本日をもって卒業します   作者: 九葉(くずは)
第3章

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第26話 姉の遺したもの

北方支援の準備が本格的に動き始めてから、一週間が過ぎた。


シュタインベルク公爵夫人は、約束通り精力的に動いてくれている。彼女の人脈を通じて、北方の領主たちとの連絡網が整備され、どの村にどれだけの物資が必要か、詳細な情報が集まり始めていた。


「公爵夫人からの報告書でございます」


マルタが差し出した書類の束を受け取り、目を通す。予想以上に綿密な調査だった。各村の人口、備蓄状況、最も必要としている物資の種類まで、細かく記されている。


「さすがね。この人、敵に回すと厄介だったけれど、味方になると頼もしいわ」


「三年前の陰謀にも、この緻密さが活かされていたのでしょうね」


マルタの言葉には皮肉が混じっていたが、私は笑って受け流した。能力のある人が正しい方向に力を使えば、それだけ大きな成果が出る。公爵夫人は今、まさにそれを証明してくれている。


午後、私は久しぶりに皇宮の書庫を訪れた。


北方の魔物について、もう少し詳しく調べたかったのだ。アレクセイが言っていた「原因不明の活性化」が、どうしても気にかかる。結界を強化しても、根本的な原因がわからなければ、また同じことが起きるかもしれない。


書庫の奥、古い文献が並ぶ一角で、私は埃をかぶった本を何冊か見つけた。帝国の歴史書、北方の地誌、魔物に関する研究記録。どれも百年以上前に書かれたもので、紙は黄ばみ、文字もところどころ薄れている。


一冊の本を開いたとき、中から一枚の紙がひらりと落ちた。拾い上げると、それは手書きのメモだった。


「魔物の活性化周期について。七十年ごとの大規模活性化。最後の記録は……」


筆跡に見覚えがあった。カタリーナ皇女のものだ。


私は急いでメモを読み進めた。カタリーナ皇女は、北方の魔物について独自に研究していたらしい。彼女のメモによれば、魔物の大規模な活性化には七十年の周期があり、前回は彼女が生まれる少し前に起きていた。


「次の活性化は、およそ十年後と予測される」


メモの日付を確認する。カタリーナ皇女が亡くなる二年前のものだった。つまり、彼女の予測が正しければ、今がちょうどその時期に当たる。


「これは……」


私は他の本も調べ始めた。カタリーナ皇女のメモは、あちこちの本に挟まれていた。彼女は書庫の文献を片っ端から調べ、魔物の生態と活性化の原因を探っていたのだ。


一つのメモに、重要な記述を見つけた。


「活性化の原因は、北方の森の奥にある『始原の泉』にあると推測される。七十年ごとに泉の魔力が溢れ、周囲の魔物を活性化させる。泉の魔力を制御できれば、活性化を防げる可能性がある」


始原の泉。聞いたことのない名前だった。しかし、カタリーナ皇女はその存在を確信していたようだ。


書庫から戻った私は、すぐにアレクセイのもとへ向かった。


執務室で報告書に目を通していた彼は、私の姿を見て顔を上げた。


「どうした。何かあったのか」


「見てほしいものがあるの」


私はカタリーナ皇女のメモを差し出した。アレクセイはそれを受け取り、目を通す。読み進めるうちに、彼の表情が変わっていった。


「これは……姉上の字だ」


「書庫で見つけたの。カタリーナ皇女は、北方の魔物について研究していたみたい」


アレクセイは黙ってメモを読み続けた。その目に、複雑な感情が浮かんでいる。


「始原の泉……聞いたことがない」


「私も初めて知ったわ。でも、カタリーナ皇女の研究が正しければ、今回の活性化は七十年周期の一部。そして、泉の魔力を制御できれば、活性化そのものを防げるかもしれない」


「姉上は、それを研究していたのか」


「そうみたい。でも、完成する前に……」


私は言葉を濁した。アレクセイは静かに頷いた。


「姉上は病で倒れた。研究は中断されたまま、誰にも引き継がれなかった」


しばらくの沈黙の後、アレクセイがメモを私に返した。


「リーゼ、この研究を引き継いでくれないか」


「私が?」


「君なら、姉上の研究を完成させられる。結界魔道具を改良したように、始原の泉の制御方法も見つけられるはずだ」


私はメモを見つめた。カタリーナ皇女が残した研究。それを引き継ぐことは、彼女の遺志を継ぐことでもある。


「やってみるわ。でも、まずは泉の場所を特定しないと」


「北方総督に調査を命じよう。森の奥に何があるか、徹底的に調べさせる」


アレクセイの声には、決意が込められていた。


数日後、マルタが興奮した様子で私の部屋に駆け込んできた。


「皇后陛下、大変でございます。カタリーナ様が」


「カタリーナが? どうしたの」


「書庫で倒れておられました。熱を出して」


私は血の気が引くのを感じた。すぐに娘の部屋へ向かう。


カタリーナは寝台に横たわり、顔を紅潮させていた。額に手を当てると、かなりの熱がある。侍医が傍らで脈を診ていた。


「状態は」


「高熱でございますが、命に別状はありません。おそらく、風邪をこじらせたものかと」


「風邪?」


「書庫で長時間過ごされていたようです。あそこは埃っぽく、この季節は冷えますから」


私は娘の顔を見つめた。苦しそうに眉をひそめながらも、眠っている。その手には、何かが握られていた。


そっと指を開くと、一枚の紙が出てきた。カタリーナ皇女のメモの一つだった。


「この子、書庫で何を……」


「お母様の真似をされていたのでしょう。最近、書庫に通っておられましたから」


マルタの言葉に、私は胸が痛んだ。私が書庫で研究をしていたから、娘も真似をした。そして、体調を崩してしまった。


「私のせいね」


「いいえ、そのようなことは」


「でも、私がもっと気をつけていれば」


カタリーナの額を撫でながら、私は自分を責めた。娘の熱い肌に触れるたび、罪悪感が込み上げてくる。


その夜、アレクセイが娘の部屋を訪れた。


カタリーナはまだ眠っている。熱は少し下がったが、まだ油断はできない。私は娘の枕元を離れずにいた。


「リーゼ、少し休め」


「大丈夫よ。この子が目を覚ますまで、ここにいたいの」


アレクセイは私の隣に座り、娘の顔を見つめた。


「君のせいじゃない」


「でも」


「カタリーナは、君の真似をしたかったんだ。それは悪いことじゃない。子供は親の背中を見て育つ。君が一生懸命に研究する姿を見て、自分もやってみたいと思った。それだけのことだ」


アレクセイの言葉は優しかったが、私の心は晴れなかった。


「姉上もそうだった」


「え?」


「姉上は、父上の書斎に忍び込んでは本を読んでいた。父上は学者肌の人で、いつも何かを研究していた。姉上はその姿に憧れて、自分も研究者になりたいと言い出した」


アレクセイは懐かしそうに微笑んだ。


「父上は最初、反対した。皇女が研究などと。でも、姉上は諦めなかった。毎日書斎に通い、勝手に本を読み、自分で実験を始めた。最終的に父上は折れて、姉上に専用の工房を与えた」


「カタリーナ皇女らしいわね」


「ああ。姉上は頑固だった。一度決めたら絶対に曲げない。君に似ている」


私は苦笑した。


「私はそこまで頑固じゃないわ」


「そうか? 七年間、届かない手紙を書き続けた人が?」


アレクセイの言葉に、私は言葉を失った。確かに、言われてみればそうかもしれない。


「カタリーナも、きっと同じだ。一度魔道具に興味を持ったら、もう止められない。君の娘だからな」


「それは……褒めているの?」


「もちろん」


アレクセイが私の肩を抱いた。その温もりに、少しだけ心が軽くなった。


翌朝、カタリーナが目を覚ました。


「お母様……?」


「おはよう、カタリーナ。気分はどう?」


「頭が少し痛いです……」


まだ本調子ではないようだが、昨日よりはずっと良さそうだ。私は安堵の息を吐いた。


「書庫で何をしていたの?」


カタリーナは少し気まずそうに視線を逸らした。


「お母様が研究しているって聞いて、私もお手伝いしたかったんです。それで、カタリーナ様のメモを探していて……」


「カタリーナ皇女のメモを?」


「はい。お母様が見つけたって聞いたから、私も何か見つけられるかもって」


娘の言葉に、私は複雑な気持ちになった。嬉しいような、心配なような。


「カタリーナ、あなたの気持ちは嬉しいわ。でも、無理をしてはだめよ」


「はい……」


「体調が良くなったら、一緒に研究しましょう。お母様と一緒なら、風邪もひかないわ」


カタリーナの目が輝いた。


「本当ですか?」


「本当よ。約束する」


娘が嬉しそうに笑った。その笑顔を見て、私も微笑んだ。


この子は、私の娘だ。カタリーナ皇女の名を継ぎ、その研究を引き継ぐ可能性を持った子。私は、この子の未来を狭めたくない。


「でも、今はまず休むこと。研究は逃げないから」


「はい、お母様」


カタリーナは素直に目を閉じた。その寝顔を見つめながら、私は決意を新たにした。


カタリーナ皇女の研究を完成させる。始原の泉の謎を解き明かし、北方の人々を魔物の脅威から守る。そして、その成果を娘に引き継ぐ。


それが、私にできる最善のことだった。

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