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婚約七年目、悪役令嬢は本日をもって卒業します   作者: 九葉(くずは)
第3章

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第24話 北からの風

春の柔らかな日差しが執務室に差し込む中、私は机の上に広げられた報告書を眺めていた。


アンナの容態は日に日に回復している。私が開発した治療補助魔道具の効果は予想以上で、一週間前には青白かった顔色に、ようやく薔薇色が戻りつつあった。公爵夫人から届いた礼状には、震える筆跡で感謝の言葉が綴られていた。


「陛下、北方総督府からの緊急報告が届いております」


侍従長の声に顔を上げると、彼の表情がいつになく硬い。差し出された封書には、赤い蝋印が押されていた。緊急を示す印だ。


「開封を」


私の言葉に頷いた侍従長が、慎重に封を切る。中から取り出された羊皮紙に目を通した彼の顔色が、目に見えて変わった。


「……魔物の活性化、でございます。北方の防衛線で、この一ヶ月の間に魔物の出現が三倍に増加したと」


魔物。帝国の北方には、古くから魔物が棲む森林地帯が広がっている。普段は防衛線の結界が彼らの南下を防いでいるが、時折その活動が活発化することがあった。


「被害は」


「現時点で死者はおりませんが、防衛隊の消耗が激しく、このままでは結界の維持が困難になる恐れがあると」


報告書を受け取り、詳細に目を通す。防衛線の結界は、定期的に魔石を補充することで維持されている。しかし魔物の活動が活発化すれば、その消耗も激しくなる。通常の三倍の出現頻度となれば、現在の補給体制では追いつかない。


「アレクセイ様は」


「先ほど、軍務卿との会議に入られました。おそらく同じ報告を受けておられるかと」


私は頷き、窓の外に目を向けた。穏やかな春の空の向こうに、北方の大地が広がっている。そこでは今、兵士たちが魔物と対峙しているのだ。


午後、アレクセイが執務室に姿を見せた。その表情には、普段の穏やかさの奥に、緊張の色が見て取れた。


「報告は読んだ」


「ああ。軍務卿と対策を協議してきた」


彼は私の向かいに腰を下ろし、深く息を吐いた。


「結界を維持するには、通常の三倍の魔石が必要になる。しかし、帝国の魔石備蓄では半年が限度だ。その間に活性化が収まらなければ、防衛線を後退させるしかない」


「後退させれば、北方の村々が危険に晒される」


「そうだ」


私たちは沈黙した。北方には、林業や狩猟で生計を立てる村がいくつもある。防衛線が後退すれば、彼らの生活圏が魔物の脅威に曝されることになる。


「結界の効率を上げることはできないかしら」


私の言葉に、アレクセイが顔を上げた。


「効率を?」


「今の結界は、どのような仕組みで動いているの」


「魔石から魔力を抽出し、それを光の膜として展開している。魔物はその光を嫌うため、近づけない」


私は頷いた。光を嫌う性質を利用した結界。原理としては単純だが、それゆえに効率化の余地があるかもしれない。


「魔石から直接光を生成しているのね。それなら、改良の余地があるわ」


「どういうことだ」


「以前、暖房魔道具を開発した時と同じよ。魔力を直接熱に変えるより、一度別のものに変換してから熱にした方が効率がいい。光も同じかもしれない」


アレクセイの目が、興味深げに細められた。私が開発した暖房魔道具は、従来品の三分の一の魔石消費で同等の熱を生み出すことに成功している。同じ原理を結界に応用できれば、魔石の消費を大幅に抑えられるかもしれない。


「できるのか」


「わからない。でも、試してみる価値はある」


翌日から、私は帝国工房に籠もった。


北方総督府から送られてきた結界の設計図を前に、私は頭を悩ませていた。現在の結界は、確かに効率が悪い。魔石から抽出した魔力をそのまま光に変換しているため、変換の過程で多くのエネルギーが失われている。


「マルタ、カタリーナ皇女の研究ノートを」


「こちらでございます」


マルタが差し出したノートを開く。アレクセイの姉、カタリーナ皇女は魔道具の研究に生涯を捧げた人だった。彼女の残したノートには、今でも新しい発見につながる着想が詰まっている。


ページをめくりながら、私は一つの記述に目を留めた。


「光の波長と魔物の忌避反応の関係」。カタリーナ皇女は、魔物が全ての光を嫌うわけではないことに気づいていた。特定の波長の光だけが、彼らに強い忌避反応を引き起こす。


「これよ」


私は思わず声を上げた。マルタが驚いたように顔を上げる。


「現在の結界は、あらゆる波長の光を生成している。でも、魔物が嫌うのは特定の波長だけ。つまり、その波長だけを効率的に生成できれば、魔石の消費を大幅に抑えられる」


「それは……可能なのでございますか」


「カタリーナ皇女のノートに、ヒントがあるわ。彼女は既に、特定の波長の光を選択的に生成する魔道具の試作を始めていた」


ノートの続きを読み進める。カタリーナ皇女は、病に倒れる前にその研究を完成させることができなかった。しかし、彼女が残した理論と試作品のデータは、私に明確な道筋を示してくれた。


「マルタ、アレクセイ様に伝えて。試作品の完成まで、三日」


三日後、私は執務室でアレクセイと侍従長を前に、試作品を披露した。


手のひらに収まる程度の小さな装置。それが、私が開発した新型結界魔道具だった。


「これは結界の核となる装置よ。従来品と同じ魔石を使って、約三倍の範囲に結界を展開できる」


「三倍?」


アレクセイが驚いたように声を上げた。私は頷いた。


「正確には二・八倍。つまり、同じ魔石消費量で三倍の面積を守れるか、同じ面積を守るのに三分の一の魔石で済むか、どちらでも選べる」


「信じられない。どうやって」


「カタリーナ皇女のおかげよ」


私は、姉の研究ノートから得た着想を説明した。特定の波長の光だけを生成することで、無駄なエネルギー消費を削減する。単純な発想だが、それを実現するためには、魔力の精密な制御が必要だった。


アレクセイは、試作品を手に取り、しばらく無言で眺めていた。


「姉上の研究が、こんな形で実を結ぶとは」


その声には、深い感慨が滲んでいた。私は静かに微笑んだ。


「カタリーナ皇女のノートがなければ、これは完成しなかった。彼女の遺した知識が、帝国を守るの」


アレクセイが顔を上げ、私を見つめた。その目には、感謝と、それ以上の何かが宿っていた。


「ありがとう、リーゼ」


「私は、自分にできることをしただけよ」


試作品は、すぐに北方総督府へ送られた。


現地での検証を経て、量産体制の構築が始まる。私は工房で技術者たちと共に、製造工程の確立に取り組んだ。


「皇后陛下、一つ確認させていただきたいのですが」


工房の主任技術者が、設計図を指さしながら尋ねた。


「この部分の加工精度ですが、従来の工具では難しいかと。新しい治具が必要になります」


「そうね。その治具も私が設計するわ。明日までに図面を渡す」


主任技術者は深々と頭を下げた。かつては女性の技術者を見下していた彼も、今では私の能力を認めてくれている。六年という時間が、人の心を変えることを、私は知っていた。


工房からの帰り道、私は皇宮の庭園を歩いていた。


春の花々が咲き誇る中、一人の少女が花壇の前にしゃがみ込んでいる。カタリーナだ。


「お母様!」


私の姿を見つけた娘が、嬉しそうに駆け寄ってきた。その手には、小さな花が一輪握られている。


「見てください。アイゼンブルーメが咲いていました」


青い、小さな花。私がこの国に来た日、アレクセイが見せてくれた花だ。


「綺麗ね」


「お母様のために摘んできました」


カタリーナが差し出す花を受け取り、私は娘の頭を撫でた。六歳になった娘は、日に日に私に似てきている。髪の色は私譲りの金、瞳の色はアレクセイ譲りの灰青。


「カタリーナ、今日は何をしていたの」


「マルタさんに、魔道具のことを教えてもらっていました」


「そう」


娘の目が、きらきらと輝いている。その姿は、かつての私を見ているようだった。


「お母様みたいに、魔道具を作れるようになりたいです」


「まだ早いわ。でも、いつか教えてあげる」


「約束ですか?」


「約束よ」


娘の小さな手が、私の指に絡みついた。その温かさに、私は微笑んだ。


夜、寝室でアレクセイと並んで座りながら、私は今日の出来事を報告した。


北方の状況、新型結界魔道具の量産計画、そしてカタリーナとの会話。アレクセイは静かに耳を傾け、時折頷いた。


「カタリーナが、魔道具に興味を持っているようだ」


「ええ。私の血かしらね」


「いい傾向だ。この国の皇女として、何か一つ、自分の力で成し遂げられるものを持つことは大切だ」


アレクセイの言葉に、私は頷いた。彼の姉、カタリーナ皇女もまた、魔道具研究に生涯を捧げた人だった。その名を継いだ娘が、同じ道を歩もうとしている。


「ところで、公爵夫人から連絡があった」


「アンナの件?」


「ああ。経過は順調だそうだ。来週には、屋敷の庭を歩けるようになるかもしれないと」


「よかった」


私は安堵の息を吐いた。あの子の笑顔が、ようやく戻ってくる。


「公爵夫人は、改めて礼を述べたいと言っている。近いうちに、皇宮を訪れたいそうだ」


「そう」


かつての敵が、感謝の言葉を述べに来る。三年前には想像もできなかった展開だ。人は変われる。私は、その証を目の当たりにしていた。


アレクセイが、私の手を取った。


「北方の件も、公爵夫人の件も、君がいなければ解決できなかった。君は本当に、この国に必要な人だ」


「あなたがいるから、私は動けるのよ」


「俺も同じだ。君がいるから、俺は皇帝でいられる」


窓の外では、月が静かに輝いていた。春の夜風が、カーテンを揺らしている。


「北方の件が片付いたら、カタリーナを連れて、あの庭園に行きたいわ」


「東屋のある場所か」


「ええ。あの子にも、あの場所を見せてあげたい」


アレクセイが微笑んだ。彼の目には、穏やかな光が宿っている。


「約束だ」


その言葉を聞きながら、私は夫の肩に頭を預けた。


北方では、まだ戦いが続いている。公爵夫人との関係も、完全に修復されたわけではない。解決すべき問題は、まだいくつも残されている。


それでも、私は恐れなかった。隣にアレクセイがいる。マルタがいる。カタリーナがいる。そして、私を支えてくれる多くの人々がいる。


七年前、私は一人で手紙を書き続けていた。届かない言葉を、それでも紡ぎ続けていた。


今は違う。私の言葉は、届くべき人に届いている。そして、その人々と共に、私は未来を作っていける。


春の風が、窓から吹き込んできた。それは、北方からの風だった。冷たさの中に、新しい季節の予感を含んだ風。


私は目を閉じ、その風を感じながら、明日への決意を新たにした。

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