第23話 許しの形
その夜、私はアレクセイの執務室を訪ねた。
春の夜風が窓から吹き込み、書類の端を揺らしている。アレクセイは机に向かっていたが、私の姿を見るとすぐにペンを置いた。
「茶会はどうだった」
「色々あったわ。少し、相談したいことがあるの」
私は向かいの椅子に座り、公爵夫人との会話を全て話した。三年ぶりの再会、変わり果てた様子、孫娘の病気、そして跪いての懇願。アレクセイは黙って聞いていた。
「それで、君はどうしたいと思っている」
「分からないの。助けたい気持ちはある。でも、すぐに『はい』と言うのは、何か違う気がして」
「違う、とは」
「あの人は、三年前に私を陥れようとした。その報いとして追放された。今、孫娘が病気だからといって、すぐに許していいのかしら。それは、私の弱さではないかと」
アレクセイは少し考えてから、静かに言った。
「君は、許すことを弱さだと思っているのか」
「……分からない」
「私は、そうは思わない」
アレクセイが立ち上がり、窓辺に歩いていった。月明かりが彼の横顔を照らしている。
「許すことは、忘れることではない。過去を消すことでもない。ただ、過去に縛られないと決めることだ。それは強さだと、私は思う」
「強さ……」
「君は七年間、王太子に無視され続けた。しかし君は、彼を恨み続けることを選ばなかった。復讐ではなく、前に進むことを選んだ。それが、今の君を作った」
アレクセイが振り向き、私の目を見た。
「今回も、同じではないか。公爵夫人を許すかどうかは、君が決めることだ。しかし、許すことが弱さだとは、私は思わない」
その言葉が、胸の奥に染み込んでいく。
翌朝、カタリーナが私の部屋にやってきた。
「お母様、おはよう」
「おはよう、カタリーナ。今日は早起きね」
「うん。お母様と一緒に朝ごはん食べたかったの」
娘は私の隣に座り、運ばれてきた朝食を嬉しそうに眺めた。パンにバターを塗り、果物を頬張り、ミルクを飲む。その一つ一つの仕草が愛おしい。
「お母様、昨日のお茶会はどうだった」
「どうして知っているの」
「マルタが教えてくれた。お母様、難しい顔してたって」
私は思わず苦笑した。この子は、私のことをよく見ている。
「少し、悩んでいることがあるの」
「どんなこと」
「昔、お母様に意地悪をした人がいるの。その人の孫娘が、今、病気で苦しんでいるの。お母様に助けてほしいと、頼んできたの」
カタリーナは首を傾げた。
「意地悪した人の孫娘?」
「ええ」
「その子は、意地悪したの」
「いいえ。その子は何も悪いことをしていないわ」
「じゃあ、助けてあげればいいんじゃない」
娘の言葉は、あまりにも単純で、あまりにも真っ直ぐだった。
「困っている人がいるなら、助けてあげるのがいいとカタリーナは思う。意地悪したのはおばあちゃんでしょ。その子じゃないでしょ」
「……そうね」
「お母様は、いつも言ってるよ。困っている人を助けるのが、カタリーナのお仕事だって」
私は娘の言葉に、はっとした。そうだ、私は娘にそう教えてきた。困っている人がいれば、助ける。それが、私が魔道具を作る理由だ。
「カタリーナ」
「なに」
「ありがとう。お母様、決心がついたわ」
娘はきょとんとした顔をしたが、すぐに笑顔になった。
「えらいでしょ、カタリーナ」
「ええ、とても偉いわ」
私は娘を抱きしめた。この子の純粋な心が、私に答えをくれた。
その日の午後、私は公爵夫人を皇宮に呼んだ。
応接室で待っていると、公爵夫人が入ってきた。昨日より少し顔色がいいように見える。私が会うと言っただけで、希望を持ったのかもしれない。
「お呼びいただき、ありがとうございます、皇后陛下」
「どうぞ、お座りください」
公爵夫人が向かいの椅子に座った。私は紅茶を勧め、本題に入った。
「お孫様の件、お引き受けいたします」
公爵夫人の目が見開かれた。
「本当……ですか」
「ただし、条件があります」
「何なりと。何でもいたします」
「まず、お孫様を直接診察させてください。症状を正確に把握しなければ、何も始められません」
「もちろんでございます」
「次に、治療が可能かどうかは、診察してみなければ分かりません。私にも限界があります。期待に添えない可能性もあることを、ご理解ください」
「承知しております」
「最後に」
私は公爵夫人の目を見た。
「これは取引ではありません。お孫様を助けたいから、助けるのです。過去のことを帳消しにするためではありません」
公爵夫人は黙っていた。その目に、また涙が浮かんでいる。
「陛下……」
「私は、あなたを許します。三年前のことは、もう終わったことです。しかし、それとお孫様のことは別です。私は、困っている人を助けたいだけです」
「ありがとうございます。ありがとうございます……」
公爵夫人が深く頭を下げた。その肩が震えていた。
翌日、私は公爵夫人の屋敷を訪れた。
帝都の一等地にある大きな屋敷だが、どこか寂しげな雰囲気が漂っている。三年間の追放で、使用人も減ったのかもしれない。
「こちらでございます、皇后陛下」
公爵夫人に案内され、二階の一室に入った。そこには、小さなベッドがあり、一人の少女が横たわっていた。
「アンナ、皇后陛下がお見えになったわよ」
少女が薄く目を開けた。金髪に青い目、エリーザベトに似た顔立ちだ。しかし、頬はこけ、肌は蒼白で、明らかに衰弱している。
「皇后……陛下……」
か細い声だった。私はベッドの傍に座り、少女の手を取った。
「アンナ、私の名前はリーゼロッテ。少し診させてもらってもいいかしら」
少女は小さく頷いた。私は彼女の額に手を当て、魔力の流れを感じ取ろうとした。
「……確かに、魔力の循環に異常があるわね」
「治りますでしょうか」
公爵夫人の声が震えていた。
「まだ分かりません。もう少し詳しく調べる必要があります」
私はアンナの全身を丁寧に診察した。魔力は体内で滞っており、特に心臓の周辺に異常が集中している。これでは、体が正常に機能しないはずだ。
「公爵夫人、いつからこのような症状が」
「半年ほど前からでございます。最初は軽い発熱だったのですが、徐々に悪化して……」
「医師は何と」
「魔力循環異常としか。治療法は分からないと」
私は考え込んだ。魔力循環異常は、確かに難しい症例だ。しかし、不可能ではないかもしれない。
「一つ、試してみたい方法があります」
「本当ですか」
「魔道具で、魔力の流れを正常化できるかもしれません。ただし、前例のない試みです。時間がかかりますし、成功するかどうかも分かりません」
「それでも……それでもお願いいたします」
公爵夫人が私の手を握った。その手は冷たく、震えていた。
「孫を救えるなら、何でもいたします」
私は頷いた。
「分かりました。開発を始めます。マルタ、工房に戻るわ」
「かしこまりました、陛下」
私は立ち上がり、アンナに微笑みかけた。
「アンナ、少し待っていてね。きっと、良くなるから」
少女は小さく頷いた。その目に、かすかな希望の光が宿った気がした。
皇宮に戻ると、アレクセイが待っていた。
「診察はどうだった」
「難しい症例だわ。でも、不可能ではないと思う」
「君なら、きっとできる」
アレクセイが私の肩に手を置いた。
「君の優しさが、私は好きだ」
「優しさ……」
「敵だった人間を許し、その孫を救おうとしている。それは、並の人間にはできないことだ」
私は首を横に振った。
「大したことではないわ。ただ、困っている人を放っておけないだけ」
「それが、君の強さだ」
アレクセイが私を抱き寄せた。その腕の中で、私は決意を新たにした。
アンナを救う。公爵夫人のためではなく、あの少女自身のために。それが、私にできることだ。
窓の外では、春の夕日が沈もうとしていた。新しい挑戦が、始まろうとしている。




