第18話 届いた手紙
新年を迎え、帝都は祝賀の空気に包まれていた。
街のあちこちで花火が上がり、人々は互いの幸福を祈り合う。皇宮でも盛大な新年祭が催され、私はアレクセイの隣で帝国の民に挨拶をした。
「今年は、特別な年になるな」
新年祭の夜、アレクセイが静かに言った。
「ええ。結婚式がありますから」
「それだけではない。君と過ごす最初の一年だ。それが何より特別だ」
その言葉に、胸が温かくなった。こうして当たり前のように隣にいられることが、まだ時々信じられなくなる。
新年から数日が過ぎた頃、思いがけない知らせが届いた。
「お嬢様、お手紙でございます」
マルタが差し出した封筒には、見覚えのある紋章が押されていた。ローゼンベルク家の紋章。父からの手紙だ。
私は窓辺の椅子に座り、封を切った。父の筆跡を見るのは、帝国に来てから初めてだった。
『リーゼロッテへ
手紙を書くのが遅くなったことを詫びる。お前が帝国に発ってから、私なりに考えていたことがあった。
婚約の知らせを受けた時、正直なところ複雑な心境だった。お前を手放すことへの寂しさもあったが、それ以上に、私がお前に何もしてやれなかったことへの後悔があった。
七年間、お前は王太子の婚約者として耐え続けた。私はその苦しみを知りながら、父として守ってやることができなかった。お前が一人で魔道具を作り、密かに帝国と取引していたことも、全て知っていた。
知っていて、何もしなかった。それが最善だと思っていたからだ。お前が自分の力で道を切り開くのを、邪魔してはいけないと。しかし今になって思えば、それは言い訳に過ぎなかった。
本当は、私が怖かったのだ。王家に逆らうことが。お前を守るために全てを捨てる覚悟が、私にはなかった。』
手紙を持つ手が、僅かに震えた。父がこんなことを考えていたとは、知らなかった。
『帝国皇帝との婚約が決まり、お前が帝国に渡ると聞いた時、私は安堵した。ようやくお前が幸せになれると。同時に、深い羞恥を感じた。お前の幸せを、他国の皇帝に委ねることしかできない自分が情けなかった。
しかし先日、帝国からの報告を受けて、考えが変わった。お前は自分の力で立っている。皇帝陛下の庇護に頼るのではなく、自分の技術で認められ、自分の意志で道を選んでいる。それを知って、私は誇らしかった。
お前は私などより、はるかに強い人間だ。
結婚式には、必ず出席する。お前の晴れ姿を見届けることが、父としての最後の務めだと思っている。
どうか、幸せになってくれ。
父より』
読み終えた時、涙が頬を伝っていた。
「お嬢様……」
マルタが心配そうに近づいてきた。私は首を横に振った。
「大丈夫。嬉しい涙よ」
父は、全てを知っていた。私の苦しみも、私の努力も、私の秘密も。そして、それを見守っていてくれた。
不器用な人だと思っていた。何も言ってくれない、冷たい人だと思ったこともあった。でも、父なりに私のことを考えていてくれたのだ。
「お返事を書きます。便箋を用意してもらえる」
「かしこまりました」
私は机に向かい、ペンを取った。
『お父様へ
お手紙、ありがとうございました。
お父様が全てを知っていてくださったこと、そして見守っていてくださったことを知り、胸がいっぱいです。
私は恨んでなどいません。お父様が私を愛してくださっていたことは、ずっと分かっていました。言葉にしなくても、態度で伝わっていました。
帝国での生活は、想像以上に充実しています。アレクセイ様は私を尊重してくださり、私の意志で選んだ道を一緒に歩いてくださっています。これ以上の幸せはありません。
結婚式でお会いできることを、心から楽しみにしています。
リーゼロッテより』
その夜、アレクセイに父からの手紙のことを話した。
「そうか。お父上も出席されるのだな」
「はい。正式な返事が届いたのは初めてですが……」
「緊張しているか」
「少しだけ」
アレクセイは微笑んだ。
「私も、お父上にはきちんとご挨拶をしなければならないな」
「ご挨拶?」
「娘を嫁にもらうのだ。父親への挨拶は当然だろう」
私は驚いた。帝国皇帝が、一介の侯爵に挨拶をする。普通では考えられないことだ。
「そんな、陛下のお立場で……」
「立場など関係ない。君の父親に、君を幸せにすると誓いたいのだ。それは私の意志だ」
アレクセイの目は真剣だった。この人は、本当にそうするつもりなのだ。
「ありがとうございます、アレクセイ」
「礼を言われることではない。当然のことだ」
私はアレクセイの手を握った。温かい手だ。この温もりが、これからずっと傍にある。そう思うと、胸が幸福で満たされた。
それから数日後、父から正式な返書が届いた。
結婚式の二週間前に帝国入りし、式の準備を手伝いたいとのこと。そして、帝国皇帝に直接お会いして、娘を託す挨拶をしたいとも書かれていた。
「お父上も、同じことを考えておられたようだな」
アレクセイが書状を読んで、少し笑った。
「娘を託す、と書いてありますね」
「ああ。良い父親だ」
私は窓の外を見た。雪解けが始まり、庭園には小さな緑が顔を出し始めている。春が近づいている。
「あと一ヶ月と少しで、結婚式ですね」
「ああ。準備は順調か」
「はい。ドレスの最終調整も終わりましたし、式次第の確認も済んでいます」
「招待客の対応は」
「ヴェルナー侍従長が完璧に取り仕切ってくださっています。各国からの来賓も、続々と返事が届いているそうです」
アレクセイは頷いた。しかし、その表情には少し影があった。
「どうかしましたか」
「いや……一つだけ、気がかりなことがある」
「何ですか」
「ローゼンハイム王国からの招待状への返事が、まだ届いていない」
私は眉をひそめた。王国への招待状は、外交儀礼として国王宛に送られている。通常なら、とっくに返事があるはずだ。
「何か問題があるのでしょうか」
「分からない。ただ、王太子の廃嫡以降、王国の内政は混乱していると聞く。その影響かもしれない」
私は少し不安になった。しかし、アレクセイは私の手を握って微笑んだ。
「心配するな。たとえ王国が出席しなくても、式は予定通り行う。君を皇后として迎えることに、何の変わりもない」
「はい……」
「それより、君のお父上が来てくださることの方が重要だ。家族に祝福される結婚式になる。それ以上の幸せはないだろう」
アレクセイの言葉に、私は頷いた。そうだ、大切なのは父が来てくれること。王国の対応など、気にする必要はない。
二週間後、父が帝国に到着した。
皇宮の玄関で出迎えた時、父の姿を見て私は息を呑んだ。以前より痩せていた。髪には白いものが増え、顔には深い皺が刻まれている。七年という月日が、父をこれほど変えていたのだ。
「リーゼロッテ」
父が私の名を呼んだ。その声は、記憶の中と同じ、低く穏やかな声だった。
「お父様」
私は駆け寄り、父の前で立ち止まった。抱きつきたい衝動を抑え、深く一礼する。
「お久しぶりでございます」
「ああ。元気そうで何よりだ」
父の目が、私の全身を見回した。その目には、安堵と誇らしさが混じっていた。
「立派になったな」
「お父様……」
「皇帝陛下にも、ご挨拶せねばなるまい」
父が視線を上げた。その先には、アレクセイが立っていた。
「ローゼンベルク侯爵閣下。お越しいただき、感謝いたします」
アレクセイが一礼した。帝国皇帝が、一介の侯爵に頭を下げる。異例のことだ。
「陛下、どうかお顔をお上げください。恐れ多いことでございます」
「いいえ。私は、閣下の娘を妻に迎える一人の男として、ここに立っております」
アレクセイは顔を上げ、父の目を真っ直ぐに見た。
「リーゼロッテ嬢を、必ず幸せにします。これは、父上に対する私の誓いです」
父は黙っていた。しばらくの沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。
「陛下。娘は、不器用なところがございます。自分の気持ちを上手く伝えられず、一人で抱え込むことも多い」
「存じております」
「しかし、誰よりも強く、誰よりも優しい子です。どうか、その強さと優しさを、受け止めてやってください」
「お約束いたします」
父はゆっくりと頷いた。そして、私の方を向いた。
「リーゼロッテ。お前は良い方を選んだ。父として、これ以上の喜びはない」
その言葉に、涙が溢れた。今度は堪えられなかった。
「お父様……」
「泣くな。花嫁が泣いては、式の前に目が腫れてしまう」
父の言葉は厳しかったが、その目は優しく微笑んでいた。私は涙を拭い、笑顔を作った。
「はい、お父様」
アレクセイが私の傍に来て、そっと肩に手を置いた。父は二人の姿を見て、静かに頷いた。
「陛下、娘をよろしくお願いいたします」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします。義父上」
父の目が僅かに見開かれた。そして、初めて見る柔らかな笑みを浮かべた。
窓の外では、春の日差しが雪を溶かし始めていた。結婚式まで、あと少し。




