第10話 鉄の花は咲く
帝国への旅は、三日間の馬車の旅だった。ローゼンハイム王国の緑豊かな平野を抜け、国境の山脈を越えると、景色は一変した。ヴァルトシュタイン帝国は王国よりも寒冷で、空気が澄んでいる。山々の頂には雪が残り、針葉樹の森が延々と続いていた。
「寒くありませんか」
アレクセイ様が、毛皮のブランケットを差し出してくれた。
「少しだけ。でも、この寒さは嫌いではありません」
「そうですか。帝都はもっと寒くなります。冬には雪が膝まで積もることもある」
「楽しみです。雪の中を歩いたことはほとんどないので」
アレクセイ様は少し驚いたような顔をして、それから微笑んだ。
「では、初雪の日には一緒に歩きましょう。帝都の雪景色は、なかなか見応えがありますから」
その言葉に、私は小さく頷いた。一緒に歩く。そんな当たり前のことが、こんなにも温かく感じられるのは、七年間それすら叶わなかったからだろうか。
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帝都シュヴァルツェンベルクは、王都ヴァイスブルクとは全く異なる雰囲気の街だった。黒い石造りの建物が立ち並び、街路は整然と区画されている。効率と機能美を追求した設計思想が、街全体から伝わってきた。
「ようこそ、帝都へ」
アレクセイ様が馬車の窓を指した。
「あれが皇宮です。君の工房は、皇宮の東棟に用意してあります」
皇宮は、王宮よりもさらに巨大だった。黒と金を基調とした威厳ある外観、そびえ立つ尖塔、広大な庭園。その全てが、帝国の力を象徴している。
馬車が皇宮の門をくぐると、大勢の使用人たちが出迎えてくれた。彼らは私を「技術顧問閣下」と呼び、深々と頭を下げた。七年前には想像もできなかった光景だ。
「リーゼロッテ嬢、こちらへ」
ヴェルナー侍従長が先導してくれた。長い廊下を歩き、階段を上り、ようやく一つの扉の前で立ち止まった。
「こちらが、貴女の工房でございます」
扉が開かれた瞬間、私は息を呑んだ。広々とした部屋には、最新の魔道具製作器具が揃っている。大きな作業台、精密な計測器具、様々な素材が整然と並んだ棚。窓からは帝都の街並みが一望できた。
「いかがですか」
アレクセイ様が隣に立った。
「素晴らしい……こんな工房、見たことがありません」
「君の才能を最大限に発揮できるよう、可能な限りのものを揃えました。足りないものがあれば、遠慮なく言ってください」
私は工房の中を歩き回った。一つ一つの器具に触れ、素材の質を確かめる。全てが最高級品だった。ローゼンベルク家の小さな作業室とは、比べ物にならない。
「ここで、好きなだけ作っていいのですか」
「もちろんです。それが君の仕事ですから」
アレクセイ様の言葉に、胸が熱くなった。七年間、隠れるようにして作り続けた魔道具。誰にも見せられず、誰にも褒められず、ただ一人で作り続けた日々。それが今、こうして認められている。
「ありがとうございます、アレクセイ様」
「礼はいりません。君がここで素晴らしいものを作ってくれれば、それが私への最高の礼になります」
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帝国での生活は、驚くほど穏やかに始まった。朝は工房で魔道具の設計に取り組み、昼は帝国の技術者たちと意見を交換し、夕方にはアレクセイ様と夕食を共にする。そんな日々が、一週間、二週間と続いた。
アレクセイ様は、求婚の返事を急かすことは一度もなかった。ただ毎日、私の傍にいてくれた。工房に顔を出しては進捗を聞き、食事の席では他愛もない話をし、時には一緒に庭を散歩した。
「アレクセイ様は、お忙しくないのですか」
ある日の夕食後、私は思い切って聞いてみた。
「忙しいですよ。皇帝ですから」
「でも、毎日私と食事をしてくださっています」
「それは、私がそうしたいからです」
アレクセイ様は、当然のように言った。
「私の一日の中で、君と過ごす時間が一番楽しい。だから、どれだけ忙しくても、この時間だけは確保するようにしています」
その言葉に、胸が締め付けられた。この人は、いつも私を優先してくれる。私の意志を尊重し、私のペースに合わせてくれる。七年間、そんな扱いを受けたことがなかった。
「アレクセイ様」
「はい」
「私、答えを出しました」
アレクセイ様の目が、僅かに見開かれた。私は深呼吸をして、続けた。
「帝国に来て、三週間が経ちました。その間、ずっと考えていました。あなたのことを、私がどう思っているのか」
「……」
「最初は、怖かったんです。また信じて、裏切られるのが。七年間、ずっとそうだったから。でも、あなたは違いました。毎日、私の傍にいてくれた。急かさず、強制せず、ただ隣にいてくれた」
私は立ち上がり、アレクセイ様の前に歩み寄った。
「私を待たせた王太子とは違う形で待つと、あなたは言いました。その言葉の意味が、今なら分かります。あなたは待っているのではなく、一緒に歩いてくれていたんですね」
アレクセイ様が、ゆっくりと立ち上がった。
「リーゼロッテ」
「はい」
「答えを、聞かせてください」
私は深く息を吸った。そして、七年間閉じ込めていた言葉を、ようやく口にした。
「あなたの妃に、なりたいです」
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アレクセイ様は、数秒間、何も言わなかった。ただ私を見つめていた。その目には、驚きと、喜びと、そして深い愛情が混じっていた。
「……本当に?」
「はい。本当に」
「後悔しませんか」
「しません。私は自分の意志で選びました。待つだけの女ではなく、自分で選ぶ女として」
アレクセイ様の顔に、ゆっくりと笑みが広がった。初めて見る、心からの笑顔だった。
「ありがとう、リーゼロッテ」
彼の手が、私の頬に触れた。温かい手だった。その温もりが、胸の奥まで染み込んでいく。
「君を、必ず幸せにします。七年分の悲しみを、全て塗り替えるくらいに」
「大げさです」
「大げさではありません。私は本気です」
アレクセイ様が、私の手を取った。そして、その手の甲に、そっと唇を落とした。
「改めて、正式に求婚させてください。リーゼロッテ・ローゼンベルク嬢。私の妻に、帝国の皇后になってください」
「はい。喜んで」
その瞬間、窓の外で花火が上がった。色とりどりの光が夜空を彩り、帝都の街並みを照らし出す。
「これは……」
「今日は帝国の建国記念日です。毎年、花火が上がります」
アレクセイ様が、窓辺に私を導いた。二人で並んで、花火を見上げる。
「偶然ですね」
「いいえ」
アレクセイ様が、少し照れたように言った。
「実は、今日君が答えをくれることを、少し期待していました。だから、花火の準備をさせておいたのです」
「……もし、答えがまだだったら?」
「その時は、来年も同じことをするつもりでした。君が答えをくれるまで、何年でも」
私は思わず笑ってしまった。この人は、本当に不器用で、真っ直ぐで、愛おしい。
「アレクセイ様」
「はい」
「これからは、アレクセイ、と呼んでもいいですか」
アレクセイは、嬉しそうに頷いた。
「もちろん。それから、私も君をリーゼと呼んでいいかな」
「はい」
花火が、次々と夜空に咲いていく。赤、青、金、銀。その光の中で、私たちは手を繋いでいた。
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翌日、婚約の発表が帝国中に伝えられた。「皇帝陛下と天才魔道具師の婚約」という知らせは、瞬く間に大陸全土に広まった。
ローゼンハイム王国からも、祝辞が届いた。国王陛下からの正式な書状には、心からの祝福の言葉が綴られていた。父からの手紙も届き、「お前が幸せなら、それが一番だ」という短い言葉に、私は涙を流した。
婚約発表から一ヶ月後、盛大な婚約披露の舞踏会が開かれた。帝国中の貴族、各国の外交官、そして多くの民衆が、皇宮の前に集まった。
「緊張していますか」
舞踏会の直前、控室でアレクセイが聞いた。
「少しだけ」
「大丈夫です。私がついています」
その言葉に、私は微笑んだ。もう、一人ではない。隣には、私を選んでくれた人がいる。
舞踏会の扉が開いた。大広間には、数百人の招待客が並んでいる。アレクセイが手を差し出した。私はその手を取り、一緒に歩き出した。
「帝国皇帝アレクセイ陛下、並びに婚約者リーゼロッテ・ローゼンベルク嬢のご入場です!」
拍手が、嵐のように響き渡った。
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舞踏会の最初のダンスは、アレクセイと二人で踊った。帝国式のダンス、あの日大使館で教わったステップ。もう躓くことはない。
「上達しましたね」
「良い先生がいましたから」
アレクセイが笑った。その笑顔を見て、私も笑った。音楽に合わせて、二人で回る。周囲の視線など、もう気にならなかった。今、この瞬間、私は世界で一番幸せだと思った。
「リーゼ」
「はい」
「愛しています」
「私も、愛しています。アレクセイ」
ダンスが終わると、会場から割れんばかりの拍手が起こった。私たちは並んで一礼し、招待客たちの祝福を受けた。
その夜、舞踏会が終わった後、私たちは皇宮のバルコニーに出た。眼下には、帝都の夜景が広がっている。無数の灯りが、星のように瞬いていた。
「七年前」
私は静かに言った。
「婚約が決まった時、私はこれから始まる人生に、希望を持っていました。でも現実は、七年間の孤独でした」
「……」
「でも今は違います。あの七年間があったから、今の私がいる。魔道具を作り続けたから、あなたに出会えた。だから、あの七年間を、もう後悔していません」
アレクセイが、私の肩を抱いた。
「君は強い人だ」
「強くなんてありません。ただ、諦めなかっただけです」
「それが強さです。どんな状況でも、自分を見失わず、自分の道を歩き続けた。それができる人は、そう多くはない」
私はアレクセイの胸に頭を預けた。温かい、安心する。この人の隣にいると、全てがうまくいく気がする。
「これからは、二人で歩いていきましょう」
アレクセイが言った。
「君一人に背負わせたりしない。辛い時は、私に寄りかかってください」
「あなたも、辛い時は私に言ってくださいね」
「もちろんです」
私たちは、夜空を見上げた。星々が瞬き、月が優しく照らしている。
七年間、待ち続けた。七年間、作り続けた。そして今、ようやく辿り着いた。私の居場所に、私を必要としてくれる人のもとに。
「アレクセイ」
「はい」
「幸せです」
「私もです。これからも、ずっと」
バルコニーの下、皇宮の庭園では、アイゼンブルーメが夜風に揺れていた。鉄の花、寒い場所でも咲く強い花。私に似ていると、アレクセイは言った。
そうかもしれない。でも今は、一人で咲いているのではない。隣に、一緒に咲いてくれる人がいる。
私は目を閉じ、この幸せを噛み締めた。




