第1話 お待ちしておりました
春の陽光が、王立ローゼンハイム学園の大講堂に降り注いでいる。白い大理石の壁、高い天井、色とりどりのドレスと礼服。卒業式典の華やかさは、七年前と何も変わらない。
——ただ一つ、私の立場を除いて。
私、リーゼロッテ・ローゼンベルクは、壇上に立つ王太子殿下を見上げていた。金色の髪、緑の瞳。絵に描いたような王子様で、民に人気があるのも頷ける整った顔立ち。その顔が、今、勝ち誇ったように歪んでいる。
「——よって、本日をもって、リーゼロッテ・ローゼンベルクとの婚約を破棄する」
大講堂がざわめいた。令嬢たちが扇で口元を隠し、囁き合う。令息たちは眉をひそめ、あるいは面白そうに私を見る。
哀れな令嬢。七年も待たされた挙句、卒業式で捨てられる女。そんな視線が、肌に刺さる。
——でも。
私は、ゆっくりと息を吸った。胸の奥で、何かが静かに解けていく。
「殿下」
私の声は、自分でも驚くほど穏やかだった。
「お待ちしておりました」
場が、凍った。王太子殿下の顔から、勝利の笑みが消える。
「……何?」
「七年条項に基づく婚約解消届は、昨日付で王家に提出済みです」
私は微笑んだ。令嬢として完璧に仕込まれた、隙のない笑み。
「ですから、殿下のお言葉は——形式上の追認ということになりますわね」
沈黙が、大講堂を支配した。誰も動かない。誰も声を出さない。
王太子殿下の隣に立つミレーヌ嬢——聖女候補として王宮に滞在しているという男爵令嬢——が、信じられないという顔で私を見ている。ピンクブロンドの髪、桃色の大きな瞳。可憐で儚げな、守ってあげたくなる容姿。殿下がこの方に惹かれるのは、まあ、理解できなくもない。
——私には関係のないことだけれど。
「待て」
王太子殿下の声が、ようやく戻ってきた。
「七年条項だと? そんなものが——」
「契約書の第十七条をご確認ください。『婚姻が七年以内に成立しない場合、被婚約者側からの一方的破棄申請を認める』と明記されております」
私は淡々と続けた。
「本日で、婚約から丸七年。条項の要件は満たされておりました」
殿下の顔が、みるみる赤くなっていく。怒り。屈辱。そして——困惑。「自分が捨てる側」だったはずの構図が、完全に崩れた。この方は今、「先に出て行かれた側」になってしまった。公の場で。大勢の貴族の前で。
私は深々と頭を下げた。
「七年間、お世話になりました。殿下と聖女候補様の御多幸を、心よりお祈り申し上げます」
顔を上げた時、殿下の口が何かを言おうと動いていた。でも、言葉は出てこない。
——それでいい。
私は踵を返し、大講堂の出口へ向かって歩き出した。
* * *
人波をかき分けるように歩いていると、不意に視線を感じた。重い。鋭い。でも、不快ではない。
私は足を止め、視線の主を探した。
——いた。
黒髪に、紫の瞳。帝国式の軍服に似た黒い礼服。ヴァルトシュタイン帝国皇帝、アレクセイ陛下。外交使節として式典に出席されていることは知っていた。若くして即位した切れ者と評判の、大陸最大の国家の統治者。その方が、まっすぐに私を見ていた。
「失礼」
低い声。大講堂の喧騒の中でも、不思議と通る。
「少しよろしいか」
周囲の視線が集まる。帝国皇帝が、婚約破棄されたばかりの令嬢に声をかけている。噂話の格好の材料だ。でも、断る理由もない。
「……はい」
私は足を止め、皇帝陛下に向き直った。
「その耳飾り」
陛下の視線が、私の右耳に向けられる。
——翻訳イヤリング。私が十六歳の時に作った試作品。装着者の魔力を媒介に、あらゆる言語を自動翻訳する。帝国語も、北方の部族語も、古代語さえも。
「L・Rの作品だ」
心臓が、一瞬止まった。
「流通している品とは少し違う。試作品か、あるいは——製作者本人の私物か」
紫の瞳が、私を射抜く。興味深いものを見つけた——そんな光が、奥で燃えている。
「製作者を知らないか」
私は、右耳に手を伸ばしかけて——止めた。癖だ。緊張すると、イヤリングに触れてしまう。
「……存じません」
声が震えなかったのは、奇跡だった。
「そうか」
陛下は頷いた。でも、その目は笑っていなかった。いや——笑っている。ただし、納得した笑みではない。「嘘だな」と、顔に書いてある。
「L・Rの作品は、我が帝国でも高く評価されている。いつか製作者に会ってみたいものだ」
それだけ言って、陛下は踵を返した。
——外交辞令、だろうか。皇帝陛下が、一介の令嬢に本気で興味を持つはずがない。そう思おうとした。
でも。
去り際に、陛下が一度だけ振り返った。その視線が、まだ右耳に向けられていた。
* * *
馬車が動き出して、ようやく息をついた。窓の外を、王都の街並みが流れていく。白い石造りの建物。春の花で飾られた通り。何も変わらない、見慣れた風景。
——七年。
長かった。
十五歳で婚約が決まった時、私は「これで人生が決まった」と思った。王太子妃になる。それが私の役割。私の価値。
でも、殿下は来なかった。社交の場では隣に立っても、視線は別の場所を向いていた。約束は守られず、手紙は返ってこなかった。気づけば私は「哀れな令嬢」と呼ばれるようになっていた。
待っていた。ずっと、待っていた。いつか振り向いてくれると、信じていたわけじゃない。ただ——待つしかなかった。婚約者という鎖に繋がれて、他に行く場所がなかった。
馬車の窓ガラスに、自分の顔が映る。
——泣いている。
いつの間にか、涙が頬を伝っていた。悔しさじゃない。悲しみでもない。これは——安堵だ。七年分の重荷が、ようやく降りた。
「……終わった」
声に出すと、涙が止まらなくなった。嗚咽を漏らさないように、手で口を押さえる。護衛に聞かれたくない。泣いてもいい。でも、弱さを見せる相手は選ぶ。それが、私の七年間で学んだこと。
涙を拭いながら、ふと——皇帝陛下の顔を思い出した。あの紫の瞳。興味深そうに光っていた、あの目。
『製作者を知らないか』
——知っている。私だ。L・Rは、私の名前の頭文字。七年間、婚約者に放置されながら、私は一人で発明を続けてきた。誰にも見せず。誰にも認められず。ただ、自分のために。
陛下は、何かを見抜いている。あの目は、社交辞令の目じゃなかった。
——だから、何だと言うのだろう。帝国皇帝が、私の発明に興味を持ったところで。婚約破棄されたばかりの「哀れな令嬢」に、何ができるというのだろう。
馬車が揺れる。窓の外の風景が、実家へ向かって流れていく。
涙は止まった。でも、胸の奥に残った熱は、まだ消えない。あの紫の瞳が、まだ——私を見ている気がした。




