鏡の前で固まる朝
次の日の朝、桐谷つかさは鏡の前で手を止めていた。
いつもなら迷わずできるはずのメイクの手順が、今日はどうにも進まない。
ファンデを薄く伸ばして、眉を整えようとしたところで、ふいに昨夜の場面がよみがえる。
校門の前、れんが急に腕を掴んできたあの瞬間。
言い方は強引だったけど、あれは嫉妬……なのだろうか。
いやいや、れんがそんなわけ──と思いたいのに、心が勝手に騒がしい。
そして、たいち。
あの自然な笑顔と言い回しの軽さ。
褒められることには慣れていても、あんな風に「理由問わず、純粋に好きだと思うところを見つける」と宣言されたのは初めてだった。
「……めんど」
ぽつりとつぶやいて、もう一度鏡を見る。
綺麗にしていないと不安だ。
理由がどうであれ、ビジュ磨きはつかさにとって“お守り”のようなものだ。
でも、今日はいつもより心が揺れている。
他人の目が怖い。
なにより、その目がれんのものだったとしたら──意識してしまう自分がさらに嫌だ。
深呼吸し、化粧を一つずつ仕上げていく。
アイシャドウ、リップ、ハイライト。
こうして工程を積み重ねると、徐々にいつもの「桐谷つかさ」が戻ってくる。
仕上がる頃には、胸の中のモヤモヤも少し落ち着いていた。
家を出たのは、いつもより三分遅い。
だが、つかさにとって“遅れた”というだけで気持ちはざわつく。
学校に着くと、教室の前で男子モブ二人がまた噂していた。
「今日の桐谷、なんか雰囲気違くね?」
「ちょい大人っぽくね? メイクか?」
聞き流しながら教室に入ると、れんがすでに席に座っていた。
「つかさ、あれ? ちょい遅かった?」
「三分だけ」
「珍しい」
れんはそれだけ言って、じっとつかさを見つめた。
昨日よりも、観察するような目。
「なに」
「……いや、今日のつかさ、なんか色っぽいなって」
「は?」
「違った?」
「別に。そういうの、軽く言わないで」
れんはわずかに黙ってから、ぽつりと漏らした。
「軽く言ってるつもりないよ」
その言葉がつかさの胸に刺さる。
れんは本気で言っているのか。
それともただの“誰にでも優しいスイッチ”なのか。
そこへ、まこが駆け込んできた。
「つかさ! 今日なんかあったでしょ!」
「ないってば」
「そのテンションがあるって言ってるようなもんなんだけど?」
まこがれんをちらっと見て、つかさの耳元でささやいた。
「あの二人、距離感どうしたの……?」
「知らない」
「いや知ってるでしょ絶対!」
そんな騒ぎの中、たいちが教室に入ってきた。
つかさを見るなり、小さく手を挙げて微笑む。
「おはよ、桐谷さん」
「おはよ」
「昨日の約束、覚えてる?」
「……え、何の?」
「桐谷さんの“好きなところ”見つけてくるって話」
れんがピクリと反応するのが分かった。
「でね、さっき見つけた」
「は?」
「歩き方が綺麗。無駄な動きしない感じ。すごい好き」
その瞬間、教室の空気が一気にざわつく。
「風間、朝からなに言ってんだよ!」
「桐谷に直球すぎ!」
「いいぞもっとやれ」などとモブ男子の声が次々飛んだ。
つかさは顔が熱くなるのを感じながら、冷静を装った。
「別に……どうでもいいけど」
ほんとは動揺していた。
それをれんがどう見ているか気になって仕方ない。
れんは机の下で拳を握っていた。
教室にいるだけで、今日のつかさの心は平常より三倍は疲れていた。




