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SNSの息苦しさとミルの自由論

作者: 千秋院憲武
掲載日:2025/11/08


 私は心のモヤモヤに対して自分なりの答えを持ちたいのです。このエッセイは自分なりの考えです。


 対立や議論を生むつもりはありません。あくまでも、1つの考えとして見てください。分かりやすさを重視したため、学術的な厳密性を重視していません。もし気になった部分があれば、個人でAIを使って補足や深堀りをしてもらえると幸いです。









 ミルの『自由論』には、極めて重要な「前提条件」がある。この前提条件を無視して、自由論を語ることはできないと私は思う(へぇーそうなんだーって感じで読み進めてください)。


 昨今のネットでは、「言論の自由」を元に様々な言葉が飛び交ってる。その言葉の良し悪しは一旦置いといて、ネットに飛び交う様々な言葉にモヤモヤしている人もいるのではないだろうか。


 そのモヤモヤが続くと、「言論の自由ってなんだろう?」と疑問に思うのは至極当然のことだ。なぜなら、何が問題なのかよく分からないことが起きているからだ。

 直感的に違和感はあっても、その問題を言葉にできない。だからこそ、分からないことを調べる。とても知的で素晴らしいことだと思う。


 さて、これから本題に入る前に少し前知識として、「日本国憲法の言論の自由」と「ミルの自由論における言論の自由」は違うということをなんとなーく知っておいてほしい。

 日本国憲法の言論の自由はミルの自由論を参考にしているけれど、国による国民への人権侵害を防ぐため、自由論の極めて重要な前提条件を取り入れていない。


だから、この2つは別物だ。

別物だけど、無関係ではない。


 今から私が話すのは、【ミルの自由論における言論の自由】についてだ。法的な言論の自由ではない。この線引は、話がこじれないために大切だから、頭に置いておくとこれから話す内容を理解しやすくなると思う。


(↓ここから本題)


 ミルの自由論を簡単に言うと、「人は自由であり、どんな者もその自由を侵害することはできない。そして、自由だとしても他者に危害を加えてはいけない」というシンプルなものだ。

 特に、″人に危害を加えてはいけない″という主張は『危害原理』と呼ばれている。これを元に「自由」を語る人もいると思う。


 しかし、ミルの主張する自由を真に理解するためには極めて大切な前提条件がある。この前提条件を省いたとき、ミルの自由論に基づく言論の自由は成り立たない。


 ミルは自由を主張する上で、「この自由は成熟した諸能力を持つ成人にのみ適応される」という前提条件をあげている。この主張は、能力が発展途上にある未成年等では、自分の利益を追求し、自分の行為の結果に責任を持つための十分な判断力(自己決定能力)をまだ持っていないとミルは考えたからだ。


 「成熟した諸能力を持つ成人」と聞いても、まだピンときていないかもしれない。抽象的な言葉で私も初めはピンと来なかった。だから、もう少し補足をする。


 「成熟した諸能力を持つ成人」とは、「ある程度の判断力と理解力」、そして「自分の行動の責任を果たす力」を持った人のことを言っているようだ。(成人とついているが、現代的には″成熟した能力を持った人″と解釈すると分かりやすいと思う)。


 この「成熟した諸能力を持つ成人」という前提条件を無視してミルの自由論をうたえば、制限のない自由によって社会の秩序崩壊を招きかねない。現にSNSでは秩序が崩壊している。


 そして、この現状はミルの目指した「最大多数の最大幸福(多くの人々が幸せ、少数派も大事)」に反している。


 こうした自由論における前提条件の欠落が、誤った「言論の自由(危害を加えなければ全て自由)」を社会に蔓延させ、結果として社会の健全な発展を阻害していると私は思う。それが意図的ではないにしろ、私たちがSNS疲れをする背景の1つとして、この「誤った言論の自由」による息苦しさがあるのではないだろうか。


 この前提条件を無視した場合、それはもはやミルの主張する「言論の自由」とは言えない。法の「言論の自由」で考えてみても、何らかの発言が刑事罰を逃れているからといって、民事裁判等の審議から逃れられるわけではない。


 ミルは確かに自由を唱えた。それは、社会がよりよい発展をし、誰もが幸福を追求できるために必要だと感じたからだ。前提条件である「この自由は成熟した諸能力をもつ成人にのみ適切される(現代的には成熟した能力をもつ人)」という制限を省いた無限の自由を主張したわけではない。


 まとめると、ミルの自由論は「自由を行使するならば、人に危害を加えないように、自分の行動がどんな風になるのか判断して理解する力を持ってよ。その力を持っていないなら、自分の自由を守ることができないよ」という話だ。



 最後に改めて大切なことを書いておこうと思う。


 私は争いや議論を引き起こしたいわけではない。あくまでも、このエッセイは自分と同じように近年におけるネットの変化に対してモヤモヤを感じている誰かのために書いた。


社会の闇や悪を断罪したいわけではない。

言論の自由について規制をしたいわけでもない。


誰かの参考になったなら嬉しい。









 正直言って、全身が震えてる。文字を打つ手が震えて冷や汗をかいている。恐いからだ。強いストレスで体がおかしくなってる。


 間違っているかも?と指摘するのはとても恐い事だ。それでも、誰かの役に立つかもしれないとこのエッセイを書いた。役にたっただろうか?


もしそうならすごく嬉しい。


 なろうは比較的理知的な人が多い印象がある。だから大丈夫とは思ってるけど、念の為、議論や争いを活発化させないために感想欄とレビューは閉じてます。




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