第三章 矛盾の天秤
第三章 矛盾の天秤
七月が終わり、夏休みが本格的に始まる頃。
金彦はいつものように朝の新聞配達を終え、コンビニの早朝バイトに向かっていた。体はきついが、文句はなかった。学費を稼ぐため。会えない日々を埋めるため。そして、約束を守るために。
だが、その「日常」は突如として脅かされることになる。
見えざる目
「天野くん、今日でバイト辞めてもらえるかな」
そう告げられたのは、勤務していたコンビニのオーナーからだった。
「理由を……教えてもらえますか?」
「いや……ちょっと“上”から連絡があってね。君の身辺に関して、あまり表に出してはいけないと。うちも大企業の地主から場所借りてるし……わかるだろ?」
“上”とは、他でもない――天野財閥。
父・天野昭継は、東京の不動産とメディアを抑える天野ホールディングスの総帥であり、同時に実質的に金彦の“影の監視人”でもある。
この街の土地も、その多くが天野家の名義である。
「父さんが、動いたんだ……」
美織と偶然出会ってから、一週間足らず。
“偶然”は、すでに父の目に留まっていた。
家に戻ると、部屋の端に、見慣れない黒い箱が置かれていた。
監視カメラ。
そしてそのすぐ脇には、何の説明もないが、父の筆跡で書かれた付箋が貼られていた。
『約束を忘れるな』
金彦は、拳を握りしめ、無言でそのカメラを布で覆った。
美織の決断
数日後――
駅前の広場で、偶然を装ってふたりは再会した。
「……また仕事、減らされたの?」
「うん。父さんが、動いたらしい」
「最低だよ……」
ベンチに並んで座るふたりの肩には、静かな夏風が通り抜ける。
「それでも俺は、止まらない。もう黙って縛られるつもりはない」
「……なら、私も」
美織が取り出したのは、小さな履歴書のコピー。
「今度、私もバイトする。近くのカフェ、落ちたけど二軒目受ける」
「なんで……そんなこと」
「かねちゃんが一人で戦ってるの、見てられないから。……せめて、同じ場所にいたい」
その言葉に、金彦の心が震えた。
孤独を受け入れ、父に従うことでしか生きてこなかった彼の前に、真っ直ぐに立つ美織。
「君のせいで、俺は変わってしまった」
「じゃあ、もっと変わって。私は、今のかねちゃんの方がずっと好き」
ふたりは言葉少なに並んで歩いた。
そしてふと、金彦が口を開く。
「……本気で、逃げ出してみようか」
「え?」
「この街を出て、知らない土地で、誰にも縛られずに……俺たちだけの人生を始める」
一瞬、美織の表情が固まる。
だが、次の瞬間には真剣な瞳で彼を見つめ返した。
「私も、本気で考えてた。いつか、そんな日が来るんじゃないかって」
「一緒に逃げよう。……その時が来るまで、力を蓄えよう」
ふたりの小さな決意は、世界を変えるにはあまりに非力だ。
だが――
心の奥で確かに響いていた。
“未来は、自分たちの手で選ぶ”と。