我の流用
子供の頃はずっと、
人前に出るのが
苦手だった。
苦しかった。
とっても怖かった。
小学校に行くのが
嫌なものだから、
とにかく熱を出して
お腹を痛くして
流れる雲を見ていた。
話しながら通う
子供たちの声が、
見知らぬ国の言葉に
聞こえていた。
それでも、それでも、
どうにか出席して、
自分ができることは、
どうにかやってきた。
日溜まりの中の
名も知らぬ花と
窓に透ける空の、
円を描く鳶が
よく目に留まった。
そういう大昔から
あるだろうことは、
頭に入ってきたのに、
およそ、勉強には、
近づけなかった。
勉強ができないと、
大人に叱られた。
眠い目で漢字を書き、
計算をして泣いた。
それでも、それでも、
どうにか卒業して、
頼りないながらも、
どうにか生きてきた。
もういいよと思い、
ある日座り込んだ。
自分には無理だと
肝心なことを止めた。
格好だけつけた。
好奇心も冒険心も、
人の気持ちも薄れて、
人との関わりからも、
距離を置いていった。
夢を放り出した。
友情があるとか
愛情かないとか、
わかったような話に
相槌だけを打った。
それでも、それでも、
どうにか仕事をして、
世のためになったのか、
どうにかここにいる。
何を見ても聞いても、
ほんとに贅沢に映る。
ついつい昔話になる。
ついついモノクロで、
永遠に眠りたくなる。
不適切という言葉を
近頃、よく耳にする。
そうそう自分なんだと、
そうそう自分だからと、
黙り込んでゆく。
適切とはなんだ。
嬉しくてぴったりと
当てはまれる自分に
変わるしかないという。
それでも、それでも、
どうにかするしかない。
これが自分なんだから、
どうにか、どうにか、
受け止めてか、踏ん張ってか。