真夏のたそがれ①
ヒミカ 雲越緋美華
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はぁはぁ、という荒い吐息が、まるで合唱のようにあちこちからもれ出す。
夏休みの特別練習――
それは初日から苛烈を極めた。
朝9時から5キロの走りこみに始まり、ダッシュ50本、筋トレ、スクワット、竹刀の素振りなどの基礎練習を12時まで。
1時間の食事休憩を挟んで午後1時からは、面打ち、小手打ち、胴打ちといった基礎技から小手面打ち、小手胴打ち、小手面胴打ちといった連続技の練習。
相手が打ちこんできた時に対応する応じ技の練習。
そして、実戦に近い形式で1対1で打ち合う地稽古。
それを午後3時まで行い、その日のメニューは終了。
午後からのメニューは普段の練習でやっていることの繰り返しだから、それだけ切り取れば普通の練習。
だけど、午前中に目一杯基礎トレをやった後でやると、その疲労度はいつものそれとは全然違った。
それに、ひとつひとつのメニューで常に顧問の女侍こと緒方菜穂子先生の檄が飛ぶので、気の休まる時がまったく無かった。
群馬県にある伊勢崎第二中学校――
ワタシたちが通うその中学は、それはそれはのどかな田園に囲まれた牧歌的な風景の中にあるのだけど、まあ、ひと言で言ってしまえば田舎。同じ伊勢崎地区の中でもかなりのド田舎だ。
そんな二中だけど、ちゃんと柔剣道場は完備されている。数年前に建てられたばかりのまだ新しい柔剣道場は、出入り口を入って左側が剣道部が使うフローリング、右側が柔道部が使う畳スペースにキッチリと分けられている。
柔道部はともかく、女子部しか存在しない剣道部にこの道場は分不相応に感じられてしまう。まあ、学校側がこれを建てようと計画したころは、まさか男子剣道部が消滅してしまうなんて夢にも思ってなかったんじゃないかな?
館内は空調が効いているけど、防具――面、胴、小手――をつけた状態で常に全身を動かしていれば、快適な温度であっても練習が終わるころには汗だくになってしまう。
だからワタシたちは、練習が終わった後なのに疲労困憊で動くことができず、みんな床に寝そべって青息吐息状態なのだ。
「あぁ、しんど……。初日でこれかよ。やってらんね」
恨みのこもった声で愚痴を吐き出すトモっち。
たしかにやってられない。
それでも、トモっちはまだ練習についていけた方だ。
ワタシなんか、走りこみの時は最後は歩いているような状態でみんなからかなり遅れてやっとゴール出来たくらいだし、ダッシュの時も、最後は完全に歩いていたし、午後の稽古も常に息切れ状態でほとんどまともに動くことすら出来なかった。
「これほどの疲労は……かえって不健康だと思います。学生の本分である勉強に……支障をきたしますし」
アッキーは、息も絶え絶えなのだけど、いつも通りのクールさはかろうじて保っている。
「ずひーッ! ずひーッ! ……苦しいです。ツライです」
一年生部員の飯田芽衣――通称メイは、ワタシよりも苦しそうに息を荒げている。
「メイちゃん、ほら、お水だよ」
そんなメイにストローを挿したペットボトルを差し出すのは、彼女と同じ1年生部員の真田紬――通称ツム。
ツムも疲れているはずだけど、メイやワタシと違ってすごく余裕を感じる。
体はワタシよりも小さいのに、体力はけっこうあるみたい。
ツムとワタシは幼なじみで昔はずっと一緒だったけど、ちょっと前まではか弱くて泣き虫で、いつもワタシの後ろについて歩くかわいらしい庇護者のように思っていた。
だけど今じゃまったく逆。
ツムの方がよっぽどしっかりしてて、ワタシの方が世話になることもしばしば。
「ありがとう、ツムちゃん。ゴキュ、ゴキュ!」
メイは上半身を起こして、渡された水をバキュームのように吸引していく。
二中女子剣道部員の中でワタシとメイだけは、中学に入ってから剣道を始めた初心者なのだけど、メイの方が年下なのにも関わらず部内で1番の長身ということもあって、センパイであるはずのワタシよりも強いし、ワタシ以上にちゃんと練習についていけている。
まあ、ワタシは1年生の時からほとんどユーレイ部員みたいな感じでマジメにやってなかったのだから、それは仕方ないよね。
今だってそう。
――何でワタシ、まだ剣道続けてるんだろ……
そんな疑問をかかえたまま、ずるずるとここまできてしまった。
――こんなツライ思いまでして、何でワタシはここにいるんだろ
実際、ワタシは試合にも出れてないし、できるのはせいぜい交代要員。ただの数合わせくらい。
ワタシひとりやめたところで、誰も困らないはず。
でも、ツムは引き留めてくれるかもしれない。もしかしたら悲しむかもしれない。
ツムの悲しむ顔は見たくないから、やめづらいというのもある。
ううん、違う。それはただの言い訳。
ワタシはここにまだ未練があるんだ。
どうしようもなくくだらなくて、どうしようもなく情けない妄執が。
――あれ? そういえばいないな
ワタシは床の上に仰向けに寝そべったまま、首だけを上げる。
視線の先に、ひとりの女の子の姿がフェードインする。
まったく疲れたような素振りも見せず、整った端正な顔を横に向け、やや切れ長で妖艶さすら感じさせる黒い瞳で流し目を使い、日本人形のように長くまっすぐに伸びた黒髪を手櫛でさらりとなびかせ、その少女は――女子剣道部の部長である中原滋子――通称シーコは、まるで泰然自若を体現するかのように窓際で静かにたたずんでいた。
キレイだ、と思った。
同性でもつい見惚れてしまう魅力を持つこの少女こそ、ワタシを剣道部に引き留める要因だった。
シーコと出会ったのは中学に入ってから。
1年生の時、ワタシは迷うことなくクラス委員に立候補した。
小学生時代のワタシは毎年必ずクラス委員を務めたし、生徒会の役員にもなった。学校行事やクラス行事も積極的に取り仕切り、ワタシなりにリーダーシップを発揮してきた。
先生やクラスのみんなもワタシのことを褒めてくれたし、お父さんお母さんもすごくよろこんでくれていた。
小学生のころのワタシは勉強も運動もいつもトップで、学校の中心的存在だったと自負している。
だけど、そこにシーコが立ちはだかった。
1年生の時に同じクラスだった彼女はワタシと同じようにクラス委員に立候補した。
ワタシはこれまでの実績をみんなに訴えたけど、シーコはただ、クラスのためにつくす、と言っただけだった。
そして多数決の結果クラス委員に選ばれたのは、シーコだった。
それは、ワタシの人生の中で初めて味わった敗北だった。
それからというもの、シーコの周りには常に人が集まるようになり、クラスの中心の座は瞬く間に彼女のものとなった。
それは、かつてのワタシの姿。
そして、なろうとしてなれなかったワタシの姿。
それでもワタシにはまだ戦う意思が残っていた。
勉強で勝てばいい。
スポーツで勝てばいい。
だけど、そんなワタシの目論みはあっけなく打ち砕かれた。
シーコは最初の中間テストでいきなり学年トップの成績をたたき出し、体力測定でもすべての項目においてワタシの記録を圧倒した。
ワタシはこの時点でもうグロッキー状態だったけど、シーコが剣道部に所属していると知って、ワタシは少し遅れる形で剣道部に入った。
剣道は初めてだったけど運動神経には自信がある。だからやれるはずだって、ワタシはまだ根拠の無い自信を抱いていた。
だけど、それもとんでもない間違いだってすぐに思い知らされた。
まず、防具をつけると思うように動けないし、竹刀を狙った箇所に当てるのさえ難しかった。
それなのにシーコは、目にも止まらないスピードで間合いをつめて、目にも止まらないスピードの剣撃を繰り出してくる。
それこそ、時代劇に出てくる侍そのものだった。
手も足も出ないまま一方的に打ちこまれる度に、ワタシなんてしょせんこの程度だったんだ、って心まで打ちのめされていった。
そしてワタシは、また挫折したんだ――