第71話 シャドウ3世の最期 北緯8度32分
<元シャドウ3世>
「美しい」
エメラルド色のカリブ海、それは、ガーネットとコバルトの戦いを見続けてうんざりしていた俺にとって癒しだった。赤と青と緑を混ぜれば、心も漂白される。
数字に追われて闘争の日々は今思えばなんだったのだろうか。地位や名誉はなければ、欲しくなるものの、実際に得てみれば空虚なものだった。このような常夏の海で、サーフィンをしている方がよほど、人生が充実していた。
そう。脳内物質のセロトニンだって、こうやって、太陽の光を浴びて健康な日々を過ごしているとたっぷりと分泌される。新しいカルマポイントだって稼ぐことができるだろう。
「休暇をたっぷりと味わっているようだな」
背中に固いものが突きつけられる。この世界では、楽器ではなく、拳銃というものが暗殺の道具として使われるようだ。
「右殺義か。よく、こんな場所まで、突き止めたな」
「地球のFBIやインターポールのような政府系とは、そこまでコネクションがないので苦労はしたさ。だが、こっちの世界の闇組織には協力者はいる。例えば、メキシコマフィアとかな」
俺がそういうと、拳銃が強く広背筋を抉るように深く押し付けられる。
「貴様にはバイオリンがよく似合うよ。このような鉛を吐き出すだけの無骨な武器は合わん」
「知っての通り、こっちの世界では魔法は使えない。だから、射撃場で訓練するところからはじめた。あんたの居場所は、早い段階から突き止めていたが、泳がせていたのはそういうことだ」
「死ぬ前に聞いておきたい。息子のグルーヴは無事か?」
「おや、あんたにも親心があったとはねえ」
くっくっくと笑いが聞こえる。
「こんなにすぐに破綻まで迎えるとまでは思っていなかったものの、シャドウ3世という肩書きは、決して、人間らしい生活を送れるものではなかった。こんなくだらない家業を継がせないのは俺なりの親心のつもりだったんだがな。せいぜいMPNへの接続権限を与えているくらいで、組織の深淵の闇には近づかせないようにしていた」
「なるほど。確かに、新しいボスは、グルーヴを消す人間リストから排除していた。あんたがいざという時に、こうならないように配慮していたんだな」
「学校の選挙の結果は?」
「ララが当選した」
その言葉にほっと胸を撫で下ろすが、右殺義はそれが不可解なようだった。
「あの子は、若いうちは苦労して、いっぱい挫折した方がいい。そうして、人間の器を育てていくんだ。俺のように若いうちからちやほやされていたら、ろくな末路は迎えん。若くして成功したテレビタレントだって、本人がしっかりしているつもりでも、やがて、周囲にちやほやされていくうちに道を踏み外していく」
かちゃっと音が鳴る。この音は、安全装置か?
「なぜ撃たぬ」
「短い間だったが、俺とあんたの仲じゃないか」
爪の手入れがなされたモフモフハンドで俺の肩をぽんぽんと叩く。
「腕のいい整形外科医を用意している。ここで、平和に過ごすといい。シャドウ3世は、ここで死んだことにする」
こんな愚かな俺に情けをかけてくれるというのか。
右殺義から手渡された、大根マークの葉巻を吸いながら、天を見上げた。
サングラスの下から塩水が垂れていた。夏の日差しは、パナマの海をさんさんと照らしていた。




