第三幕・二話
……夢を見ていた。わたしと空が過ごした、高校時代の夢を。
空と出会ったのは、高校入学時。同じクラスだったという些細で、単純なもの。
あの頃の空は静かで……けれどもしっかり者で、気が付けば他の皆から頼りにされる『優等生』だった。
藍色の瞳と濡羽色の髪は黒檀の様に綺麗で、顔も良いから男子からの人気も高かった、らしい。
わたしも、いい人だなとは思っていた。けれどあの頃のわたしは引っ込み思案で、誰かと仲良くなる未来なんて見えていなかった。
そんなある日の事。帰る最中に忘れ物に気が付いたわたしは一人、茜色射す教室へと足を運んだ。
扉を開ける。無人だと思っていた教室には、一つだけ人影があった。
「これ、あなたの?」
言いながら文庫本を持つ彼女。それこそが、春待空だった。
「そ、そうです」
本を受け取る。何を言われるか分からないのが怖くて、足早に立ち去ろうとしたときの事だった。
「あ、待って」
呼び止められて、だけど振り向くことは出来なくて。背中で、声を聞いた。
「その本、面白いよね」
少し上ずった声。その声とその言葉が、彼女の優しさだとわかって。
わたしはここでようやく振り返り、頷きを返すことが出来たんだ。
その出来事をきっかけに、わたしと空は話すようになって、仲良くなった。
そして、空に引っ張られるようにして、私の性格も少し前向きになっていった。
空と、友達として過ごして一年が過ぎた二年目の秋。
わたしは空に頼まれて一人、教室で本を読んでいた。
がらりと扉が開いて、空が入ってくる。
「ごめん、待たせた」
「ううん、大丈夫」
空に頼まれたのは、相談だった。頼りにしてくれたのは嬉しかったけど、いい答えを返せるかは不安だった。
「でさ、さっそく相談なんだけど」
いったい何を言われるのか。わたしは緊張しながら耳を傾ける。
「私、告白された……どうしたら、いいと思う?」
どうしたら、そう聞かれて、困った。わたしだって、告白された事なんてなかったのだから。
「空の好きにするしか、ないんじゃないかな」
悩みに悩んで、結局出てきたのはそんな無難な答えだった。
そして空はそれに納得してくれることはなく、何度も首を傾げる。
「ねえ、雪乃。雪乃だったら、どうする?」
もし、告白を受けたら? 脳内で必死に考えてみるけれど、分からなかった。
「断る、ん、じゃないかな」
分からないから、断る。そんなわたしの答えを聞いて、なぜか空は微笑んだ。
その笑顔は夕日に照らされて、眩しかった。
「ありがと、雪乃」
空はお礼を言って、教室から出て行った。
***
その日から、空が告白に対してどう答えたのかがやけに気になった。
そして、なんでそんな事をこんなに気にしているのかが分からなくて、自分自身に困惑していた。
噂で、『断った』という事は聞いたけど、それを空本人に確認するのはなんだか怖くて。
事の顛末をなかなか聞けないまま、また時間が流れた。
「告白、された」
放課後の教室、二人きり。座る空にそう言ったら、彼女は笑った。
「雪乃が?」
肯定すると、空はまた笑い始める。
「なんで、そんなに笑うの」
「だって……あの雪乃が、でしょ?」
思った以上に失礼なことを思われているようだった。けれどそれでショックを受けるような事は無い。むしろ、その距離感が心地よかった。
「ねえ、どうしたらいい?」
問う。わたしには分からないから。
告白されて思い出したのは、空の相談。
実際に告白されて初めて、あの時の空の気持ちが分かった気はした。
分からない。誰かに聞きたい。そんな思いそのままに、空に頼った。
質問を聞いた空の表情からは笑顔が消えて、真剣な表情になる。
「雪乃は……どう、したいの?」
問われて、考えて、目の前の顔を見て……一つ、気が付く。
きっとわたしは、分からないふりを、気が付かないふりをしていただけだという事を。
気が付いて、ハッとして。思わず口から零していた。
「ねえ、空。わたしがもし、女の子を好きだとしたら……」
何を言っているんだろうと、零してから気が付いた。空の顔が、直視できない。
けれど空は、優しい声で、言った。
「……それでも、雪乃の恋を応援するよ」
***
一体どれだけ、彼女の顔を見つめていただろう。
一体どれだけ、彼女に助けられてきただろう。
一体どれだけ、彼女から大切なものをもらっただろう。
そして、一体いつから……彼女の事を、気にしていたのだろう。
わたしは告白を断った。気持ちは嬉しいけれど、答えることは出来ないと。
定型文のようなその言葉を使えば、告白してきた相手はあっさりと引き下がっていった。
そこまでは、よかったんだけど。
「告白、断っちゃったんだ」
「うん」
「受けると思ってた」
そう言いながら隣で本をめくる空。
盗み見るように空の横顔を見ては、思わず意識してしまいまた目を離す。
そんな事を、ずっと繰り返していた。
恋を考えた時。告白を受けて、助言を受け、自分がどうしたいかを考えた時。
他の人の事を考えようとしても、どうしても一人の顔が浮かび上がってくる。
大切な友人の顔が、その濡羽色の髪が、藍色の瞳が、桜色の唇が。
空という人物が、私の脳裏を埋め尽くしていくのだ。
疑問は尽きなかった。どうして空なのか。どうして女の子なのか。
考えれば考えるほどに空の事が頭から離れなくなって。
……気持ちを打ち明けることも考えた。いっそのこと、勢いのまま言ってしまえばいいって。
けれど、それを打ち明けたとして。きっと空は困ったように笑うだけだ。
その顔を見るのが怖かった。
彼女に好意を向ける事も。
彼女に拒絶される事も。
そして、彼女に好意を向ける事も。
結局わたしは、卒業までこの想いを胸の奥にしまい続けた。
最後まで空に、本当の気持ちを伝える事は無かったのだ。
残された連絡先と、違う進路。あなたは教師として。そしてわたしは……あなたに憧れたわたしは、看護教諭として。
卒業する時は、寂しさと同時に安心を感じた。
彼女……空の事を忘れられると、その時は本気で思っていたから。