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第三幕・一話

 好きだと、言えなかった。

 その後悔は未だに、わたしの胸に残り続ける。


 初夏、じめじめとした空気が抜けてようやく晴れが目立ち始めた頃。

 わたし、冬原雪乃はかつての同僚と飲みに出掛けていた。


「そら~」

「はいはい、なんですか?」


 同僚で、かつて同じ学校で教師をしていた春待空。

 彼女は色々あって生徒を家に住まわせ、その結果別の学校で教鞭をふるうことになった。


「はぁ……ビール追加で!」

「あーい!」


 店員の威勢のいい声。

 平日夜の居酒屋はサラリーマンで溢れ、喧噪と酒とつまみの匂いがどこまでも続く。

 そんな中で私は、空の横に座ってお酒を飲んでいた。


「まだ飲むの……? 大丈夫?」

「大丈夫だって~」


 長くて綺麗な空の髪を梳きながら、その体にもたれかかる。

 彼女の体からは、暖かな布団のような春の香りがした。


「仕方ないなぁ」


 言いながら空は、私の頭を撫でてくれる。それがどこまでも、心地よかった。

 空とは、高校時代からの仲だった。同じ高校に入り、一度大学で別れたと思ったら再び同じ職場に就くという、何とも言えない奇妙な仲。


 一度目は生徒として、二度目は教師と看護教諭として。

 まさか二回も、同じ高校に行くことになるとは思っていなかった。


「で、なんで誘ったの」

「なんで?」

「はぁ……」


 深いため息を吐く空。藍色の瞳がわたしの顔を覗く。


「雪乃が私を誘うときって、大抵何かがあった時でしょ」


 見透かされていた。だが、その感覚にはもう慣れていた。なんだかんだで親友と呼ぶくらいには、空と長い付き合いなのだから。


「何か……いや、あるんだけどぉ」


 思い浮かぶのはあの冬の出来事だった。

 何かあったと言っても半年前。けれどこの問題は、未だに胸の奥に残り続けているのだ。


「ビールお持ちしました!」


 店員と共に運ばれてくるジョッキ。中に注がれた黄金の液体を、感情を飲み込むように喉に流し込む。


「んっ……はぁ……」

「……飲むね、今日は」


 空はカシスオレンジを少しずつ飲んでいた。赤い液体を流し込む桜色の彼女の唇がやけに色っぽく見えて、心臓が早鐘を打つ。

 誤魔化すように、話題を出した。


「あ、そう、元気してる? あの子」

「あの子……ああ、遥?」

「そうそう」


 聞くと空は一度顎に指をあてて考えた後に、口角を上げながら語った。


「ん~……元気だよ。うん、普通に」


 と言いつつ、楽しそうに話す空。そんな嬉しそうな顔を見るのは久々で、わたしも少し楽しくなってくる。


「ふ~ん……楽しそ」


 言うと、空は一瞬だけふっと遠くを見るような表情をした後、言った。


「うん、楽しいよ」

「そっか」


 その会話の後、しばらく無言で、互いに酒を煽っていた。


***


「そら……」

「なに?」

 

 進む酒。出されたポテトを摘まみながら声をかけた。

 芯のある顔はあの頃から変わらない。頼りになりそうな、しっかり者の顔。

 ……今なら、半年前から抱えた物を吐き出してもいいように思えてしまって。

 気が付けば思わず、零していた。


「……生徒に、告白された」

「ふふっ」


 こっちは悩みを打ち明けたというのに、目の前の彼女はおかしいと言わんばかりに笑う。


「こら、笑うな」

「だって。雪乃がって思うと」

「雪乃がって、どういう事よ~」


 言うと、空は一度滲んだ涙を拭いた後指折り数えながらわたしの顔を覗き込む。


「抜けた所多くて、口下手で、声もちっちゃくて……」

「それは昔の話だし~」


 店内の客もまばらになっていき、喧噪がどこか遠く聞こえ始める。


「……まあ、今もダメダメなままだし、別にそれはいいんだけどさ」


 思い出す。生徒の家にお世話になるのは、流石に言い訳が出来なかった。


「けど?」


 ぐるぐるとした頭では、もはや自分が何を言って何を聞いているのかが分からなくなっていく。


「女の子に告白されるなんて、思わなかった」


 そこまで言ってようやく、笑っていた空の目が真剣みを帯びた。


「そりゃ、こんなになるまで飲む訳だ」


 言いながら残りの酒をぐっと飲みこむ空。ほんのりと、彼女の顔は赤くなっていた。


「思い出すね」

「何を?」


 聞くと、意地悪な笑みを浮かべながら空は言う。


「高校時代の相談。あの時の雪乃の、笑っちゃうくらいに真剣な表情も」

「忘れて」

「『空、わたし告白された』って」

「忘れてよ~!」

「忘れる訳、無いじゃん」


 ふざけた口調だったくせに、ここだけ真剣に言うもんだから何も言い返せなくなってしまう。

 ……昔、高校の頃の事。確かにわたしは、空に恋愛相談を持ちかけた。

 誰が好きかと名前を言う事はなかった。けれど、女性を好きになったとは、言った。


「あの時さ、なんて相談されたかは覚えてるんだけど、なんて答えたかは覚えてないんだよね」

「……そっか」


 あの時、夕焼けに染められたあなたは困ったように微笑みながら。

『雪乃の恋を応援するよ』

 そう言った。けれどその時の、空の困り顔が頭から離れなくて。

 何も言わなければ何も変わらない。あの頃のわたしは……結局、何も事を起こさなかったんだ。


「それで、答えるの?」

「わかんない」


 彼女の告白に答えるという事……いやまだ、待っていてほしいとは言われているけれど。

 空の顔を見る。あの頃から少しだけ成長した……可愛い顔。

 目の前の彼女さえいなければ。もう少し気楽に考えられただろうに。

 思わずそう思ってしまい、忘れるように酒を飲む。


「ねえ、雪乃」

「なに?」


 変わらず寄っかかったままの体勢。ちょっぴり尖って答えたら、撫でる手が少しだけ優しくなった。


「私の話も聞いてよ」

「いいよ……どうせ拾った子の話でしょ?」

「拾ったって言わないでよ……保護したの」

「似たようなもんでしょ」


 笑う。彼女が生徒を家に引き込んだ話は、二か月ほど前に聞いて飽きるくらいにからかった。

 空は一度、はーっと息を吐き出した後、ポツリとわたしを見て呟いた。


「……今の雪乃みたい」

「どういう意味よ」

「……最近、遥が甘えん坊でさ。まあ、仕方ないのかなって思うけど……毎朝、気が付いたら私のベッドに入り込んでるの」

「懐かれてんじゃん。やなの?」

「嫌っていう訳じゃないけど……」


 そういう空は、悩んでいるというよりも嬉しそうな顔をしていた。


「嬉しそうな顔、してるよ?」

「……そう?」


 言われた瞬間に彼女は顔を引き締めようとして、それでもどこか優しい表情へと戻っていく。

 グラスを撫でる空のその目に、その顔に、見覚えがあった。


 ああ、あれは……恋、している顔だ。

 そっか、空が、か……


 

 気が付いて、感情がぐちゃぐちゃになって。空の止める声も気にせずに飲み続けた。

 そこから先は、何も覚えていない。


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