第二幕・三話
電話のコール音が響く。何度かけても、相手は出ない。
風見家への連絡。固定電話は無いようなので、母親の携帯電話にコールしているが一切出る気配はない。
焦燥だけが胸中を支配していた。せめて、会話だけでも。
そんな思いも空しく、コールが切れる。いつまでもかけ続けられるほどの時間は無かった。諦めて私は、仕事へと戻った。
翌日の教室。いつも茶色い何かが丸まっている右奥の席は空席だった。欠席の連絡すらも、無かった。心配しつつ、風見家への連絡を繰り返し試みていた。
次の日も、その次の日も、風見遥は学校に来なかった。欠席の連絡なしに三連休。流石におかしい。そう思い始めた矢先、学年主任に呼び出された。
「春待先生、いいですか」
「はい」
学園主任は脂ぎった額をハンカチで拭きながら、言う。
「あなた、最近風見さんに連絡をしましたね? その件で、親御さんからクレームが来てるんですよ」
風見さんの話だとは思っていたが、そんな話をされるとは思っていなかった。
「その、家庭訪問をしようと考えておりまして」
「家庭訪問?」
学年主任の目が細くなる。しきりに額の汗を拭きながら、困ったような表情でわたしを見てくる。
「あのですね、春待先生。一人で勝手に動かれると困るのですよ。親御さんからも連絡が来るし、教員同士の情報共有にだって支障が出来ます。それにですね、ご家庭との信頼だって……」
「勝手に行動したのは申し訳ないです……ですが、見たんですよ。彼女、風見さんの体に痣があるのを。それに彼女は、もう三日も登校していません」
痣という言葉を聞いて学園主任の額を拭く手が止まる。だがまた、すぐに動き出す。
「それは……見間違いか、もしくは何かしらの怪我で出来た物でしょう。三日出席していないのも……何かしら、家庭の事情というものでしょう。ともかく、勝手に動かれると……」
話にならなかった。耐えられない。これ以上話を聞くことが。
「失礼、します」
「春待先生! 話はまだ……」
気が付けば駆けだしていた。職員室を出て、学校を出て、向かうのは風見さんの家。
久々に走ったせいで息が上がる。慌てて、進行方向とは逆の道に入ってしまった事もあった。
それでもなんとか、風見さんの家の前に着く。
公団住宅の二階。簡素な表札のみでカメラの無いドアベルを鳴らす。
息を整えて待っていると、中からは三十歳ほどの女性が出てきた。
Tシャツにボロボロのジーンズ。髪はぼさぼさで、まともな社会人にはとても見えなかった。
「どちら様?」
目の前の女性からは強烈なアルコールと煙草の香りがした。
「風見さんのお宅で、間違いないですか?」
「ああ、そうだけど」
「私、遥さんの担任をしております……」
遥、その名を出した瞬間に目の前の女性の目が吊り上がる。
「お前か! あたしの電話に連絡しまくったやつは!」
怒号に、思わず体を縮こませる。目の前の女性は唾を飛ばして叫び続ける。
「うっとおしいんだよ! 人が楽しんでるときに何度も何度もよ!」
「ですが、遥さんはここ三日連続して休んで……」
「あいつの事なんか知らねえよ! ったく、勝手にどっか行きやがって」
目の前の女性を見ていると、胸の内から怒りが湧いてくる。
教師として言ってはいけない。そう分かっていても、思わず口から出た言葉。
「親として、恥ずかしくないんですか!」
「……親として、だと? そもそもあたしはあいつを生みたかったわけじゃねえ。あいつが勝手に生まれてきたんだろうがよ! 大体あんたなんだ? あいつの母親か?」
苛立たしげに壁を殴る目の前の女性。もしここに遥がいたら、殴られていたのは彼女だったのだろうか。
「まだか~?」
奥から呑気な男の声が聞こえた。聞こえた瞬間に目の前の女はこちらを睨み、しっしと追い払う動作をする。
「帰れ!」
閉まるドア。荒ぶる感情を抑えながら、情報を整理する。
一応、風見さんの情報は聞けた。家に居ないという状況は、ある意味ではよかったのかもしれない。
とはいえ女の子一人。三日間どこかで過ごすのは厳しいだろう。
ともかく私は、風見さんを探すことにした。彼女の家の周りを中心に、少しずつ範囲を広げながら。
街を見回りながら、思う。
私は、風見遥という生徒の事を余りにも知らないと。
勉強ができる、運動が出来ない。よく眠っている。……そんな紙に書かれた情報以外に何も知らなかった。
彼女が何が好きで、どんな風に育ち……そして、なんであんな性格になったのかを。
(……どこ? 風見さん)
だから私は、彼女が行きそうな場所など全く分からなかった。
ただあてどもなく探す。白と青に染まった空はだんだんと橙色に染め上げられていき、更にその上から濃紺が塗られていく。
春になり、暖かくなってきたと言えども夜はまだ肌寒い。瞬間、彼女との会話を思い出した。
『あったかいところ』
夜を超すならば、そもそも風の入らない場所がよい。そしてそもそも彼女は、暖かいところが好きだった。
漠然とした手がかりだったが、何もないより、遥かにましだった。
私はまた、歩き出す。
彼女がいたのは橋の下。風が通らず、土の温かな場所だった。
「風見、さん……やっと、見つけた」
彼女は小さく、膝を抱えて座り込んでした。私の声を聞いて、顔を上げる。
「せんせい……?」
見慣れた制服は所々がほつれていて、色々な所が汚れていた。髪もぼさぼさで、三日間どんな生活をしていたのかが透けて見えた。
「せんせいっ!」
彼女は立ち上がり、私に抱き着いてくる。抱きとめる。小さくて、暖かかった。彼女はこんなにも、小さかったのか。
腕を回してより強く抱きしめる。土の香りと煙草の香り。そしてほんのりと日の匂いがした。
嗚咽が聞こえる。そっと背中を撫で続けた。ゆっくりと、抱き留めた彼女が泣き止むまで。
彼女が泣き止むまでは少し時間がかかった。顔が離れたところに、ポケットティッシュを渡す。涙を拭いて鼻をかんで、ようやく彼女はいつもの憎まれ口をたたく。
「せんせい、暇なの? こんなところまで来るなんて」
「暇じゃないです。あなたを見つけるのも、教師の仕事です」
「そっか」
風見さんは一度考え込むような仕草の後に、私の顔を見上げて言った。
「ねえ、せんせい……これから、どうしよ」
縋るような瞳だった。迷い、躊躇い、何をすればいいのか分からなくなっている顔。
それはまるで、昔の自分の様だった。とにかく今は、彼女を風呂に入れねば。
「家に来なさい」
「いいの?」
「ええ」
あの家に彼女を戻すのは愚行。そして幸い、私の家は狭くない。余った部屋に布団だってある。
「じゃあ、行く」
こうして私と風見さんは、夜道を進んだ。目指すは、私の家。