第二幕・二話
次の日、風見さんはまた旧校舎の屋上に居た。
扉を開けて足を踏み入れる。温かな風が私を受け入れる。
「風見さん」
呼ぶと、寝転んだ彼女はこちらに顔を向けにへらと笑う。
「せんせい、また来たんだ」
それ以降、彼女も私も言葉を発さなかった。私は彼女に、なんて声をかければいいのかが分からなかった。
ふと、彼女が言葉を漏らす。
「ねーせんせい」
「……なんですか?」
「そんな風にずっと仏頂面してたら、せっかくの顔がしわくちゃになっちゃうよ」
言われてふっと顔に手を当ててしまう。そんな私を見て彼女はまた笑った。
「……大きなお世話です」
「まあ、冗談は置いといてさ」
風が吹いた。彼女は笑ったままなのに、目だけはやたら真剣に私の事を見つめていた。
「せんせいってさ、なんで先生になったの?」
「どうして?」
「だって、せんせいって、先生に向いてなさそうなんだもん」
言われてなるほどと思ってしまう自分がいた。確かに何度、向いてないんじゃないかと思っただろうか。
それでも、私が教師をする理由はある。思わず私は彼女に、昔話をしていた。
***
自分の性格を一言で言うならば『真面目』だと私は思う。言われた事はしっかりやったし、頼まれた事は出来るだけ誠実に達成したいとそう思ってきた。
だからこそ高校時代、壁にぶつかった。今でも覚えている。あの時の言葉と、味わった感覚を。
「春待、お前、将来どうすんだ?」
それは端的で、何の変哲も無い言葉。けれどその言葉によって私は、それまで歩いてきた道が崩れ去るかのような錯覚をしていた。
将来、自分のしたい事。そう言われて私は何も出てこなかった。
なんとなく大学に行き、なんとなく社会に出て……それくらいしか、想像できていなかったから。
「春待、進路、これでいいのか?」
目の前に座るのは担任の先生。進路相談という事で、面談をしていた。
確かあの時、先生は私が慌てて書いた進路希望の紙を持っていた。
ただ、今の学力で行ける大学名を書いただけの簡素な紙を。
「はい、いいです」
何かを言い返す気もなかった。このまま形式上の会話をして、面談は終わると思っていたのだ。けれど、そうはならなかった。
「……迷ってるな」
「はい?」
「迷ってんだろ? 進路。俺にはわかる」
「……」
何も答えられなかった。戸惑う私を見ながら先生は話を続けた。
「まあ、いきなりそう言われても困るよな。けど、それでも言うぞ。春待、進路は悔いの無いように選べ。適当だとか、惰性だとか、みんなと同じように、じゃなくて自分で真剣に考えて決めるんだ」
「……分からない、ですよ」
ぽつりと出た言葉。それは自分で言うつもりの無かった言葉。
それを聞いて先生は、にやりと笑う。
「今はそれでいいんだ。学校はそれを見つめる場所で、教師はそれを手伝うのが仕事だからな」
夕日が差し込むオレンジ色の教室の中で、先生はそう言って豪快に笑っていた。
それから、私は先生と何度も面談をした。会うたびに先生は新しい職業の本を持ってきて、様々な説明をしてくれた。
「春待は真面目だからな。選ぼうと思えば色々な職業を選べるだろう……逆に、選択肢が多いから悩ましいっていうのもあるけどな」
どれくらいの職業を見たか分からない。銀行員、CA、事務員、小説家……ピアニストとか、フィギュアスケーターだとか、どう考えてもなれそうにない職業まで。
だけど、それらをどれだけ見ても私にはピンとこなかった。
「はぁ……これだけ見ても無いか」
「……すみません」
「いや、いいんだ」
ふとここで、一つの職業が言われていないことに気が付いた。
「先生、一個、言ってない職業があります」
「お、なんだ?」
「……教師」
言った瞬間、先生は苦笑いしていた。気付いていなかった、なんて事はないだろう。
おそらく初めから分かっていて、だからこそ言わなかった。
「教師は、きついぞ」
真剣な目だった。かつて見た中でも一番と言えるくらいに。だけど私はその目を、まっすぐと見つめ返すことが出来た。
「それでも」
どれだけ見つめあっていただろうか。先生は頭を掻きながら一つの資料を取りだし始める。
「はぁー……ったく、馬鹿だな」
「いいんです」
自然と口角が上がっていた。暗雲が晴れたようなすがすがしい気分。
「これ、先生になりたいなら家で読んでおけ」
私の前に置かれた書類。話は終わりだと言わんばかりに先生は立ち上がる。
「最後に一つ……なんで、先生になりたいなんて言い出したんだ?」
教室を出ようとした先生は、去り際に私に聞いてきた。
「秘密、です」
言えない。目の前で一緒に苦悩する先生を見て、なりたいと思った事は。
その答えを聞いて、先生は諦めて立ち去っていく。その背中に、声をかけた。
「ありがとうございました」
……それがきっかけで、私は教師を目指すことになり、大学に進んで今に至る。
話し終えて、息をつく。思った以上に、語ってしまった。
「……長い」
聞いたのはそっちだろうと思ったけれど、何も言わない。
彼女はにやにやと笑ったままだった。ふと、チャイムが鳴る。
「あっ! 今日は限定メロンパンの日……いてっ」
そう言いながら慌てて立ち上がろうとした彼女は転びそうになる。
「大丈夫!?」
慌てて駆け寄って体を支える。だぼついた長袖の制服。その隙間、首元に……白い肌に不相応な青色の点があった。普段ならば、洋服に隠れて見えないような場所。
「だ、だいじょうぶだから!」
慌てて彼女は私から離れてかけていく。
バタンとドアの閉まる音が響いた。動けない私は一人、屋上に残される。
目についたものが脳裏から離れなかった。
あれは、おそらく痣。それも、どこかにぶつけたとかじゃない。他人につけられたであろうもの。それに、あの隠すような態度も。
思い出す。彼女の個人情報を。彼女の家庭環境は、率直に言って悪い。
……虐待を受けている? もちろん、確証はない。
「だと、して……どうするの?」
たとえ彼女が虐待を受けていたとして、いったい私に何が出来るだろうか。
躊躇いと葛藤。動くには、勇気が必要だった。思い出すのは恩師の顔。
彼だったら、なんて言うだろうか。
「……それでも、やらなきゃ」
一言呟いて空を見た。吸い込まれそうな青色が、どこかくすんで見えた。
脳内のメモに一つの項目を足して、私も屋上から立ち去った。