第二幕・一話
「ただいま」
疲労困憊で家に帰れば、出迎える声がある。
「おかえり、せんせ。おつかれさま」
それは数か月前には無かったもので、帰ってくる挨拶の声にもようやく慣れてきた。
「ありがとう、風見さん」
出迎えてくれた彼女をそう呼ぶと、むくれる。
「家ではさん付け禁止。なまえで呼んで」
「ああ、そうでしたね……つい、癖で」
「せんせいはしょうがないなぁ」
笑う彼女を見ていると、私の選択が間違っていないと思えた。
そう、彼女が私の家に来たきっかけ。それは桜が葉桜に変わり始めた頃の頃だった。
それは、学校という職場にようやく慣れてきた頃の頃。
春の穏やかな陽気が差し込む職員室の中で私、春待空は頭を抱えていた。
手元にあるのは一枚の紙。一人の生徒の顔写真と、成績などが書いてある。
先ほど学年主任に言われたお小言を思い出して、またため息をついてしまう。
風見遥。水篠高校二年三組。得意科目は数学、苦手科目は体育。
テストの成績は優秀なのだが、問題はそこではない。彼女はしょっちゅう授業を抜け出すし、教室に居ても眠っているだけ。教師陣共通の『問題児』。それが彼女だった。
そして私は、彼女の担任である。つまり、問題児である彼女の態度をどうにかしてくれと遠回しに言われたわけだ。
「はぁ……」
今日何度目のため息かはもうわからなかった。それでも立ち上がる。ここでうだうだ腐っていても仕方がなかった。ふと、外を見ると旧校舎の屋上に人影が見える。
水篠高校は、改築の際に古い校舎を取り壊すことなく建て直したため旧校舎と新校舎の二つが存在している。
そして、新校舎の職員室からは旧校舎の屋上が見えるという訳だが。
「……風見さん」
悩みの種が、また悩みを生み出している。幸か不幸か、次の授業までは少し時間がある。
気が付いてしまうと放っておけない。書類を自分の机に置き、私は旧校舎へと歩を進めた。
「せんせい、ひまなの?」
春の温かな風が吹き抜ける。屋上に寝っ転がり、日向ぼっこをする彼女の姿はまるで大きな猫のようだった。少しダボついた茶色い制服のせいで、茶トラに見える。
「暇じゃないですよ」
教師の仕事は忙しい。授業の準備に生徒の問題解決に……やることは、多い。
「じゃあ、なんでこんなところに来たの?」
こんなところ。言われて周りを見渡す。確かにこんなところだ。旧校舎の屋上なんて、普通なら誰一人入らないだろうから。
「……風見さんこそ、なんでこんな所に居るんですか」
彼女はコンクリートの床に寝っ転がったまま顔だけ私に向けていた。ぽかんとした表情を一度した後、何がおかしいのか笑い始める。
「あはは、なんで……なんでだろうね」
笑いながら、彼女は空を見た。目を細め、体を伸ばす。
「ここが、あったかいから、かなぁ」
ゆったりとした声で再び眠りにつこうとする遥。確かに今はお昼前で、いくら日が温かいからと言ってもここに居ていい理由にはならない。
「今は授業中ですよ」
言った所で彼女の心には響かないだろう。けれどそれを言うのが教師の仕事。
「いいじゃん、授業なんか」
彼女はわたしに背を向けるように寝転んだ。
「ダメです。学生の本分は……」
「勉強? ほんとに? ねえ、春待せんせ」
春の陽気とは正反対の冷めた声だった。私は、その質問にすぐ答えることが出来なかった。
「……それでも、勉強は大切ですよ」
「いいじゃん、あたし、テストの点数はいいし」
そう、彼女は決して頭が悪いわけではない。それどころか、点数だけ見れば学園上位を争う立場に居る。
だからこそ、教師陣には生意気に思われている訳だが……
次の言葉を言おうとした瞬間に、新校舎の方からチャイムが鳴る。
思った以上に長居してしまった。次の授業の準備をしないといけない。今の場所からだと、走らないと間に合わなそうだった。
「……授業、出てくださいね」
去り際、そう言葉を残して私は旧校舎を出た。帰ってくる声は、無かった。
授業にはぎりぎり間に合った。クラスを見渡していくと、陽気にあてられ眠る生徒が数人、真面目に聞いている生徒が数人……あと、手元で何かを弄っている生徒が数人。
もう、多少見逃すのは暗黙の了解になってしまっている。気にすることなく授業を進める。
ふと、右端一番後ろの席を見る。茶色い何かが丸まっていた。そこは風見さんの席だった。
あのまま屋上に居るのかと思っていたけれど、どうやらちゃんと教室に戻ってきたようだ。
まあ、寝ているのは変わりないけれど。
特に何かが起こることも無く、平和に授業は終わる。終了のあいさつと同時に男子生徒が購買に駆けて行く。私も教材をまとめ、職員室へと戻る。
自作の弁当を食べながら、書類の整理をしていると声がかけられる。
「春待先生、少しいいですか?」
「あ、はい」
手招きしてくるのは学年主任。この時点で何となく話が察せた。
「あの、風見さんの件ですが、何とか改善できませんかね。難しいのは重々承知ですが、やはりああいう生徒がいるとクラスが、ひいては学校全体の評判が」
話が長い。大切な話だ、聞かねばならないとは思うもののそんな意思とは反して言葉は耳から耳へと流れていく。
「と、言う訳でですね、風見さんの件、くれぐれもよろしくお願いしますね」
「はい、わかりました」
ひとしきり言って満足したのか、うんうんと頷きながらこの場を去る学年主任。
時計を見れば、貴重な昼休みは残り十分。慌ててご飯をかきこみながら話の中に上がった一つの単語を思い出す。
「家庭訪問……」
風見さんの家に行くというのは、学園主任が言うには珍しくいい案のように思えた。