第八幕・一話
ほとんどの業務が終了し、あとは帰るだけとなった保健室の中。
わたしは息を吐きながら、前の出来事を思い出す。
空に告白した、あの夜の事を。
「好きだったよ、か……」
後悔が、どこまでも心の中で続いていく。
あの言葉を聞いたとき、高校生の空に気持ちを伝えればよかったと心の底から思った。
伝えていたら、どんな風に未来は変わっただろうか。
もしかしたら、保健教諭にすら、ならなかったかもしれない。でもそしたら、彼女とは……
並べられた二つの椅子を見る。
氷室さんは、最近はめっきり来なくなった。
久々に、会いたいと思った。空に告白し、砕けて……分かったから。
氷室さんの真摯な気持ちを踏みにじり続けた事を謝りたかった。
とはいえ自分で連絡する手段を持っていなかったわたしは、ただ待つことでしかできない。
そんな事を考えながら荷物をまとめていたら、響くノックの音。一体なんだろうと思いながらも声を返す。
「はーい」
「失礼、します」
扉が開く。そこには、会いたいと思っていた氷室さんが立っていた。
「……どうしたの?」
何かがあった。それ以上の事が、何も分からなかった。
氷室さんは、なかなか話を切り出さない。ただその、濃紺の瞳でじっとわたしを見つめている。かと思えばいきなり、顔をぐっと近づけてきた。息が当たって、くすぐったい。
彼女はそれでも何も言わない。わたしも何も言い出せなくて、ずっと見つめあっていた。
……近くで氷室さんを見て、気が付く。
空と同じ色だと思っていた彼女の髪の色は、空よりもほんの少しだけ青い事。逆に瞳の色は、ほんの少しだけ暗い事。そして何よりも彼女と空を、重ねて見ていたという事実に。
「先生……大切な話が、あるんです」
真剣な顔で彼女は言う。これ以上ないくらいに緊張した面持ちで。
……わたしは、氷室さんが何を言いたいのかが、分かった。
きっとあの時……わたしを守ってくれた時に言った約束を、果たそうとしているのだと。
それを理解した瞬間、心の奥底から鳴る警笛。ダメだという思いが、胸の奥底から溢れ出る。
だって、その言葉を……わたしが何もせず、何も変わらずに聞いてしまったら。
何も変わることなく、関係だけが独り歩きしてしまう。あの時と、一緒になってしまう。
「待って、氷室さん」
きっと今すぐに伝えたかったのだろう。出鼻をくじかれたような顔をする氷室さん。
……わたしは改めて、氷室さんの事を考えていた。
最初の出会いは、入学式の日。迷った彼女が、保健室に来てくれた。けど、それだけだった。
でも、それがきっかけで彼女は悩みをわたしに打ち明けてくれた。信頼されているのだという事実が、わたしにとってはとても嬉しかった。そしてだからこそ、力になりたいと思った。
だから、話して、悩みを解決出来るように付き合って……けど、解決したらそれで終わりだと思っていた。
けど、そうはならなかった。あの日、酔って襲われたわたしを彼女は助けてくれた。
そして、あんなにダメダメなわたしを見て、彼女は「好き」だと言ってくれたのだ。
あの時はまだ、胸の奥にある傷が消えていなかった。
けれど、空に気持ちを打ち明けて、しっかりと玉砕したのだから。
過去に負った傷はもう引きずれない。今目の前にいる彼女の気持ちを、素直に受け止めたい。
そして何より……そんな彼女の気持ちに答えたい、わたしがいたから。
「先生も……氷室さんに、言いたいことがあるの」
じっと至近距離で見つめあったまま。心臓は激しく動き回り、不安という名の波が心に押し寄せる。
……告白って、何かを伝えるのって、こんなにも難しいんだな。
それを思うほど、氷室さんのあの告白がどこまでも愛おしく思えて。
「言いたい、事?」
薄桜色の唇が動く。わたしは今、勇気とあの頃の後悔を抱いてその一言を言う。
「……わたしは、氷室さんの事が……好き、です」
言い終わると同時に目の前の顔が赤くなる。わたしの顔も、どこまでも熱く火照っていた。
氷室さんは目をぱちぱちと瞬かせる。
彼女の事が好きだと、言葉にしてようやく、実感が沸く。
「ごめんなさい、氷室さん。本当は、わたしから言わなきゃいけない事だったのに」
抱きしめる。かっこいいと思っていた彼女の体が思ったよりも遥かに小さくて。
「先生……」
熱を含んだ吐息。美冬の抱きしめる力が、強くなる。
「また……僕を、見てくれましたね」
その言葉を聞いて彼女が気付いていたんだと知った。
わたしが……氷室さんと、空を重ねて見ていたという事に。
「ごめん、なさい……」
思えば、彼女が保健室に来なくなったのは空が別の学校に行ってから。
「……いいんです」
優しく許すその言葉を聞いて、泣きそうになってしまう自分がいて。
涙を誤魔化すように、抱きしめる腕に力を込めた。
「……先生、お願いしてもいいですか?」
「いいよ」
氷室さんは一度息を飲む。
胸を動かす激しい鼓動はもはや、わたしの物なのか氷室さんの物なのか分からなかった。
「先生、『美冬』って……僕の事、名前で呼んでください。それと……」
一度体が離れ、頬に手を添えられる。
暖かいその手のひらは、わたしの顔を繋ぎ止めるには十分なものだった。
「キス、していいですか?」
何も言えなかった。黙って頷けば、美冬は顔を近づけてくる。
「目、閉じてください……恥ずかしいんで」
言われて慌てて目を閉じた。
真っ暗な世界の中で、頬に触れる美冬の手だけが確かに、そこに存在していた。
唇に触れる、柔らかい感触。たった一瞬だけだった。それでも、熱は残り続ける。
キスをしたという事実が胸に刻まれ、幸福という名の鎖がわたしの心を捕らえる。
「……美冬」
目を見て名前を呼べば、彼女は嬉しそうに笑う。
名前を呼ぶのはどうにも慣れなくて、頬に熱が残り続けていた。
しばらく、何も言わずに見つめあっていたけれど、美冬は何かに気が付いたように笑みを零した。そして、彼女は、薄桜色の唇を揺らした。
「雪乃」
ハスキーな声で名前を呼ばれ、胸が高鳴る。
嬉しくて、恥ずかしくて、照れくさくて思わず顔を背けてしまう。
「恥ずかしいですね、これ」
その言葉を最後にまた、互いに何も言えなくなってしまう。
放課後の保健室という密室に、二人。
そんな空間を打ち破るのは、ノックの音と懐中電灯の光。
「誰か残っていますか?」
慌ててわたしは美冬と離れて、扉を開けた。立っているのは宿直の先生。
何とかなんとか誤魔化しながらわたしたちは、二人で校門を潜った。
夜の帳が下りた住宅街。街灯に照らされながら、わたしと美冬は歩く。
「今度は、わたしが待つ番ね」
わたしが今着ているのはスーツで、美冬が着ているのは学生服。
どう聞かれても、誤魔化せない物。
「どういう意味です?」
訝しげな声。握りしめられた手のひらに力が籠る。
「……あなたが、大人になるまで」
助けられた時、彼女の事をかっこいいと思った。頼りになるとも思った。
けれど、彼女はまだ未成年で。
本当はわたしが守らなきゃいけないし、わたしが導かなければいけない。
美冬はするりと手を抜き、わたしの目の前に立った。
月に照らされた黒い瞳が、わたしを見つめる。
「じゃあ、待ってて……ください」
美冬の成長を待つ間、わたしもしなきゃいけないことがある。
……大人にならなきゃいけない。彼女に相応しい、大人に。
「待ちます。今度こそ」
また手を繋いで二人、夜の道を歩いていく。




