第七幕・一話
夕刻、自宅。
珍しく仕事が早く終わって、私は日の出ている内に帰ることが出来た。
「ただいま」
同居人ができてから言うようになったこの言葉。いつもならば気怠そうな声と共に遥がもそもそと出迎えてくれるのだが、今日は何も返ってこない。
どうやらまだ、遥は帰ってきていないようだった。
それならばと思い立ち、荷物を片付け部屋着に着替えて自室に行く。
先日、雪乃を泊めたばかりの自室は汚部屋というほどではないけれど散らかっている。
最近、部屋の掃除が出来ていなかった。そう思うと同時に思い浮かべるのは、元凶の顔。
思えば、遥が家に来る時以来の掃除だ。なかなか時間が取れなかったというのもあるが、それ以上の理由に遥の妨害がある。
彼女は私が部屋で掃除をしようとすると自然と一緒に部屋に入り、私の物を漁り始めるのだ。
そして「これなに?」だのなんだの聞きながら、物を散らかしていく。
彼女がいると、まったく片付けが捗らない。
そんな訳で、久々の掃除。小物を片付けて、床を拭いて……最後に、ベッド回り。
ふわりと、いつもと違う匂いがする。一瞬だけ考えて、思い当たる。雪乃の、匂いだ。
そりゃ、雪乃をここに寝かしていたんだからその匂いが残っているのは当たり前の事。
掛け布団を整えながら、思い出す。雪乃の、告白を。
……まさか今更、雪乃から告白されるとは思わなかった。
言われた時の喜びも、答えられない悲しみも……もう味わう事は無いって思っていたのに。
(遅いよ、雪乃)
私にも、守りたい人が出来てしまったから。大人になってしまったから。
(……遥)
彼女を最初に見た時、寂しそうだと思ったことは覚えている。
ぶかぶかな制服を着て、日の射す屋上で寝転がる茶トラのような彼女の姿。
そんな彼女が放っておけなくて、話をして……傷を見て。
いても立ってもいられなくなった。今思えば、無謀だったなと自分でも思う。
いくら虐待があったと言っても、自分の家に連れ帰るまではしなくてもよかったんじゃないかって。
けど、その選択を私は後悔していない。遥の、笑顔を見る機会が増えたから。
彼女の笑顔を見るたびに、私が守りたかったものはこれだったんだと、思わされる。
「……はぁ」
何度も何度も布団を揃える。頭の中では遥の事でいっぱいだった。
守りたい。大切にしたい。その想いに間違いはない。
間違いが無いからこそ、それを傷つけてしまいそうな自分が、怖い。
……ちょっと前から、遥の距離感が近い。
一緒に眠ったり、座っていたら膝の上に座り込んできたり。
遥が私に向ける好意が、異性に対するそれなのか母親に対するそれなのかは分からなかった。けど、想像はつく。きっと、遥が求めているのは母親としての私。
ただ、彼女は甘えん坊なだけなのだと。
流されちゃいけない。ちゃんとしなきゃいけない。
だって私は、大人なのだから。
ばたん! と開く扉の音で漂っていた意識が帰ってくる。
自室から出て玄関の方を見れば、そこには遥が立っていた。
「遅かったね。おかえりなさい」
近づいていくうちに、なんだか遥の様子が変だと気が付いた。
息を切らし、手に膝をついて汗を垂らし……
「せんせい、こそ、はやかったじゃん」
「仕事が早く片付いたから……大丈夫?」
彼女が全力で走ってきたことは分かった。
あの遥が? とは思うけど。一体何があったのだろうか。
疑問に思っていたらいきなり遥はがばっと顔を上げ、私の目を見てはっきりと言った。
「先生! 大切な、話が、あるの!」
言い切って、いきなり遥は前に倒れこむ。
「遥っ!?」
抱き留める。口元に耳を寄せると、すーすーと穏やかな呼吸をしていた。少しだけ安心しつつ、遥をベッドに運び込む。タオルで軽く汗を拭いて、水の入ったコップを持っていった。
眠る遥。帰ってきたと思ったらいきなり大切が話があると言って、そしていきなり倒れこんでくるなんて思わなかった。
一体、何があったのだろうか。
「んぅ……」
「起きた?」
布団がもぞもぞと動き始め、遥は起き上がる。
ベッドの傍に置いておいた水を一口飲み、きょろきょろと周りを見渡した後、首を傾げた。
「……あれ? あたし」
「走って帰ってきて、いきなり大切な話があるって言って、そのまま倒れたよ?」
私がそう言うと、彼女は頭を抱え始める。
うあうあとしばらく謎の鳴き声を上げた後、おもむろに私の顔をじっと見つめる。
「せんせい……いい?」
薄桜色の唇が動く。今までに見たことがないくらいに真剣な表情で、遥は言った。
「大切な話、しても」
私は黙って頷いた。遥は、その小さな手で私の頬に触れる。確かめるように、そっと。
「……あたしね、先生に会えてよかった。先生は、あたしにすごく優しくしてくれるから。あたし、知らなかった。先生に会うまで、家の中の温かさも、美味しいご飯も、安心できる場所も……毎日を楽しく過ごせる希望も。全部、全部先生がくれた。ずっと、ずっとこんな日々が続くって思ってた。先生と一緒に、過ごす日々が。けど、けど……この前、先生が女の人を連れてきて、告白されてるの、聞いちゃって。それで、それで……」
遥に、雪乃の告白を聞かれていたという事実に思わず動揺した。
そして今、彼女がその話題を出す意味も分かってしまう。
「変わらなきゃいけないって、このままじゃいけないって思って。何が出来るかなって考えて……考えたけど結局、一つしか思いつかなくて」
そのまま、遥は何も言えなくなってしまう。彼女の顔は、林檎のように真っ赤に染まっていた。
私は……この先の言葉を聞いていいのか、言わせていいのか悩んでいた。
きっと、次の言葉を聞いたら戻れなくなってしまうから。
彼女を傷つけてしまうから。
『先生』として、『大人』として、断るなら、きっと今、なんだろうけど。
(『がんばれ、そら』)
ふと、あの時の雪乃の言葉を思い出す。ああ、そうだ。
あの時私は、確かに雪乃に言ってほしかった。好きと言う言葉を、誰でもない私が。
考える。今の自分を。先生だとか、大人だとか、そんなしがらみを全部無視して。
……残ったのは、遥への素直な想い。そして、あの時の後悔。
(……言ってほしい。素直な気持ちを。あの時みたいに、聞かずに終わりたくない)
答えは出た。緊張と必死に戦って、未だに悩み続ける遥に、声をかけた。
「……いいんだよ。言っても。私は、受け止めるから」
その言葉を聞いた遥は泣きながら、ただただまっすぐな感情を私にぶつけてくれる。
「せんせい……あたし、先生の事が、好き!」
好きと言われて、心が跳ねた。
ジワリと胸に幸せが広がって、涙と感情が溢れて止まらなくなる。
ぎゅっと、思わず抱きしめた。小さくて柔らかな遥の体は、どこまでも暖かい。
「……私も、遥の事、好きだよ」
強く、強く抱きしめた。想いが伝わるようにと願いながら、かけがえのない大切なものを。
どれくらい……どれくらい、そうしていただろうか。
互いの体温と香りが混ざり合い、どこまでも一つになっていくような感覚。
腕の中で遥は、私の顔を見上げる。
どこか物欲しそうなその顔が、とても愛おしくて。
「ねえ、せんせい……」
上気した頬。潤んだ栗色の瞳。ブレーキが、かからない。
「キス、して?」
言葉を返す代わりに、黙って頬に手を添えた。遥は、目を瞑る。
「んっ……」
一瞬、触れたか触れてないか分からないくらいのキス。そのはずなのに、唇はどこまでも熱を持っていて。唇から広がったその熱に、思わずくらくらしてしまう。
「えへへ……」
はにかみながら照れる遥。その笑顔は、今まで見た中で一番、一番可愛い。
「ね、せんせい……もっと」
目の前ではにかむ天使は、禁断の誘惑をしてくる。どこまでも魅力的なその提案。
それを受け入れてしまったら……これ以上キスをしたら、それこそ本当に自分が抑えられなくなってしまう。必死に、脳内の理性を呼び戻す。そして、張り付く遥を引き剥がす。
「……だめ」
「なんでぇ……」
残念そうな声を上げながらいじける姿が心に刺さる。けれどそれでも、駄目なものは駄目だ。
私だって、これ以上をしたいと思った。けど、それ以上に遥を大切にしたいから。
……というか遥、まだ未成年だし。
「その先は、遥が大人になってから」
そう言うと遥は口を尖らせて文句を言った後、くすりと笑った。
「せんせい、まじめだもんね」
言いながら、また抱き着いてくる遥。このまま朝まで過ごしてしまうのだろうか。
そう思った瞬間に、音がした。く~、と、遥のお腹から可愛らしい音が。
そういえばまだ、夜ご飯を食べていなかった。というかそもそも作っていない。
「あ、あはは」
誤魔化すように笑う遥。その顔はまだ真っ赤なままで。
「ご飯、作らなきゃね」
立ち上がってキッチンへと向かった。いつもだったらベッドで寝ころんだままの遥も、今日は一緒についてきた。
「おてつだい、する」
「珍しい」
「だって、先生を支えられるようにならなきゃなんだもん」
ぐっと意気込む遥の姿を見て、私は思う。
……彼女を、幸せにしたいと。
二人並んでキッチンへ。きっと今後、遥と一緒に料理を……一緒に何かをする機会が増えるだろう。
それはきっと、とても楽しくて幸せなことで。
「先生、何で笑ってるの?」
「これから、楽しくなるだろうなって」
未来を思いながら私は、遥と今日のご飯を作ることにする。
「ところでせんせい、今日のご飯は何?」
「遥の好きな、ハンバーグだよ」