第一幕・二話
女性を好きになる。その言葉の意味を理解したときに、じくりと胸の奥が痛む。
彼女にとってはきっと、これ以上ないくらいの暴露だったのだろうと思う。
わたしを頼り、話してくれたことも、嬉しかった。
だからこそ真剣に、けど深刻にはならない程度に言葉を返した。
「……別に、いいんじゃない?」
あくまで軽くそう返すと、驚いた表情を浮かべる彼女。否定されると思っていたのだろうか。
「恋をして、その人が同性で。驚かれるだろうし、叶う確率だって低い」
過去の自分を思い出して泣きそうになる。それを必死に抑え込んで。
「どうしてなんだろうって、何度も考えると思う。けれど、それでも先生は、そういう恋があっていいと思う」
体内にたまった熱を吐き出すように言葉を紡ぐ。言い切って。目の前の彼女の表情を見ると、難しい顔をしていた。
「……分からない、です」
ふと、チャイムが鳴る。三限終了の合図。
「来週、また来ます」
そう言い残して、彼女は静かに立ち去った。
「……はぁ」
思わずため息を吐いた。頭を振って、思考を切り返る。まだ今日は終わった訳では無いのだから。
次週、彼女は言葉の通りやってくる。何とも言えない微妙な表情で。
先週最後に見た、戸惑いと困惑がぐちゃぐちゃに入り混じった表情。
互いに座る。向き合うが、互いになかなか何かを言い出せない。
鳥のさえずりと、体育の喧騒が外からは聞こえていた。
「氷室さん」
「はい」
どこから聞いて、どう話せばいいのかを測りかねていた。ともかく、何でもいいから何かを聞き出したかった。
「今って、何の授業の時間なの?」
聞くと彼女はちらりと窓を見ながら言った。
「……体育」
知っていた。彼女が体育の時間に決まってここに来ている事は。
「体育、嫌いなんです」
次の言葉を引き出すことが出来て、少しだけ安堵した。
「なんで?」
だが、続く疑問に答えてくれることは無かった。代わりにされたのは、わたしに対する質問。
「先生から見て……僕って、どう見えますか?」
「どう、どうかぁ……」
彼女の顔をじっと見つめた。小さくて端正な顔立ち。どこか凛々しさを感じさせる濃紺の瞳に、化粧した気配はなさそうなのに綺麗な肌。
「ん~……可愛い?」
思ったことを率直に言うと、彼女はほんのり顔を赤く染めながら否定する。
「なっ……違います! そういう事じゃなくて!」
「じゃあ、どういう事?」
聞き返せば彼女は、自らの服を摘まみながら言った。
「私の、性別です」
聞かれて、改めて考える。どこか少年っぽいと思わせる風貌だが、来ているのは学校指定のブレザーとスカート。
「女性?」
返した瞬間に彼女がぐっと距離を詰めてきた。眼前に迫る顔。
石鹸の匂いが薬品に混じって、香る。
「それは僕が……スカートを、履いているから?」
何も言い返すことは出来なかった。その通りだったから。何も言わないわたしを見て、泣きそうな声で彼女は離れる。
「……分かんないんです。僕は、自分の性別が」
そう言いながら彼女は、自らの過去を話し始めた。
「僕は幼い頃、男のように育てられました。父親が、空手の師範だったから」
言葉ではなく相槌で会話を続けていく。
「父親は子供……息子が出来たら、一緒に空手がしたいって思っていたらしいです。けれど、生まれたのは僕」
彼女は話しながら自らの手のひらを握り締め、じっとそれを見つめていた。
「僕の後に、もう一人誰かが生まれたら違ったのかもしれない。けれど、僕が生まれてからそれ以上子供は生まれなかった。だから僕は父親に言われて空手をすることになり、女の子らしい事とは無縁の生活を送ってきました」
ただただ真剣に、耳を傾け続ける。
「中学までは、それが続いたんですけど……あと半年で高校生になる。そんなときにいきなり『女の子らしくなれ』って言い始めたんです。どういう風の吹き回しかは分からないですけれど」
「髪、伸ばしたのって」
「……とりあえず、髪伸ばしたらそれっぽくなるかなって。けど、髪の長い自分に慣れなくて結局切っちゃいました」
毛先を触りながら、彼女は話す。
「……それでも、男の人を好きになれたら僕もやっぱり女なんだ、みたいな風に思えたんですけど」
握られた拳。感情の行く先を見失ったかのように強く強く握りしめられている。
「女性を好きになって……もう、何も分かんないんです。自分の性別も、何もかも」
余りにも、その握りしめた手が冷たそうに見えて。
思わず手を重ねていた。実際はそんなに冷たくは無かった。ピクリと、彼女は震える。
「先生?」
思い出す。彼女の事を見ていると、高校時代のまだ若く未熟な自分を。
「……ねえ、氷室さん。その人の事、好き?」
聞くと、顔を赤くしながら、それでも必死に言葉を紡ぐ。
「好き、です」
「じゃあ、いいじゃん。自分の性別なんて、気にしなくても」
あっけらかんと言うと、ポカンとした表情でわたしを見る。
「先生もね、あるよ。恋した事」
思い浮かべるのは、真面目そうな顔をした一人の女性。
「高校生の頃……女の子にね」
「先生……」
震える瞳。短い黒髪とその濃紺の瞳はどこかあの人に似ている気がした。
「戸惑ったよ。なんで自分は女性なのに、女の子を好きになったんだろうって」
目の前の彼女に面影を重ねそうになって、思わず一度視線を外した。
「……悩んで悩んで、やっぱり好きだって思いは変わらなかった。けど」
息を飲む。胸の奥が、痛い。
「告白、出来なかった。何かを変わることが、怖くて」
あの頃は、それが最善だって思っていたから。けれど、違った。
「大学生になって、その人のことは忘れられると思っていたの。何も起きず、先生は新しい恋をするんだって。今度は、男性が好きになるんだって。けど、忘れられなかった。何度も何度も好きな人の顔を思い出した」
誰かに話すとは思っていなかった出来事。だがするすると、目の前の彼女に話してしまう。
それは、彼女の悩みが身近だから……それとも、あの人に似ているから?
「……だからもし、悩んでいるとしたら、正直に言ったほうがいいと思うな」
同じ後悔を、彼女にしてほしくは無かった。だから。
「自分の性別とかも、確かに考えちゃうかもしれない。けど……」
一度言葉を切る。目の前の彼女は不安そうにわたしを見ていた。
わたしは過去の自分に送るように、言った。
「恋に性別は、関係ないよ」