第六幕・一話
「氷室さん……氷室さん?」
「えっ……あっ」
梅雨が明け、初夏の日差しが差し込む教室。
周囲からの囁き声。訝しむ先生の顔が見られない。
「大丈夫ですか?」
「は、はい……すみません」
手元のノートを見れば、意味不明な文字が羅列されている。
……かなりの時間、気が抜けていたらしい。
先生は授業に戻り、クラスの空気もそれに伴い戻っていく。
そんな中で僕だけがまだ、集中できないままでいた。
……二か月前から、こんな調子だ。
集中出来ない理由も、気が抜けてしまう理由も分かっている。
全部……全部、あの出来事が原因だ。
「失礼します」
「あ、いらっしゃい」
保健室の扉を開くと、雪乃先生が僕の事を出迎えてくれる。
今日は人がいないから、少し長居出来そうだった。
放課後の保健室に寄り、ちょっとだけ先生と話して帰る。これが最近の日課だった。
互いに向かい合って座る。普段ならば、穏やかな笑顔を見せてくれる先生だったけど、この日は違った。
「……先生、どうしたんですか?」
「……どうして?」
「なんだか、悲しそうな顔をしてます」
言うと、彼女はふっと肩の力を抜いてため息を吐いた。そして、訳を話してくれる。
「同僚の先生が転勤になっちゃったのがね、悲しくて」
「それは……残念、ですね」
それ以上、僕に何かを言うことは出来なかった。
そして、その同僚の転勤という出来事は時間が解決してくれる悲しみだと、僕は思っていた。
次の日、また次の日……会うたびに、先生はちゃんと笑っていた。
けれど、話している先生の目は僕じゃなくて、どこか遠くを見ているようだった。
その鳶色の瞳に、悲しみを残したまま。
話しているのに話していない……そんな状態が辛くなって、気が付けば僕はあまり保健室に足を運ばなくなった。
先生を誰かに……僕の後ろに重なる誰かに奪われてしまいそうで。
けれどそれを、先生に直接聞きだすことも出来なくて。
『先生に相応しい人になる』
自分で言い出した制約に、自分自身で苦しめられている。
相応しいという言葉の意味すら、今はもう、分からない。
……先生に告白したときは、確かに思っていたんだ。
先生に相応しい人になって、先生を守って幸せにするんだって。
けど、あの悲しそうな顔を見て、足を止めてしまう自分がいて。
先生の傍に居たい、共に過ごしたい。そんなわがままと、先生の傍に僕がいないほうが幸せなんじゃないかという思いがドロドロに混ざり合って、黒く僕の心を染めていく。
ずっと、ずっとそんな事ばかりを考えていた。
(どう、すれば……)
「……室さん、氷室さん!」
「え、ああ」
気が付けばホームルームは終わっていて、かばんを持ったクラスメイトが僕に話しかけていた。
「なに?」
「氷室さんに、会いたいって言ってる人がいて」
言いながら扉の方に指をさす。その方向を見れば、余った長袖をだぼつかせ、足をパタパタと踏み鳴らす女生徒が一人。
ありがとう、そう声をかけて立ち上がり彼女の元へ近づいた。
「僕が、氷室だけど……何の用?」
僕を呼んだという目の前の彼女を見たことがあるか考えてみたけれど、覚えがない。
一体何の用か聞いた僕を前にして、彼女は真剣な顔で切り出した。
「冬原先生の事、知りたいの」
いきなり何を言うんだと思った。意図が読めなくて、思わず疑わし気に目の前の彼女を見てしまう。
けれど彼女はどこまでも真剣な瞳で僕を見る。逃がさないという意思が、目からひしひしと伝わってきた。
「……分かった。話すのはいいけど、場所を変えよう。少し待ってて」
かばんを取りに戻って、二人で廊下を歩く。行く先は高校の傍にある喫茶店。
歩きながら僕は、風見遥と名乗ったその少女から話を聞いていた。