第五幕・一話
この家に住み始め三ヶ月。ようやく二人暮らしにも慣れてきた頃の事。
あたしは、先生が夜遅くに一人の女性を自室に連れ込んでいく姿を見た。
一体どんな関係で、何が起きるのか。気になって、仕方がなかった。
よくあたしは、先生の寝室に忍び込む。だから、今更目の前にある扉を開ける事に抵抗はない。
けれど、中に先生以外の人がいるとなると話は別だった。
なんだかすごく親しそうだったし、どこかで見たことがあるような気がするし、美人だし、距離は近いし……
もやもやするもやもやする心を抱えながら、息を潜め扉に耳を当てる。
何を話しているのかだけでも、聞きたかったから。
「そらぁ……」
小さいけど、聞こえる。荒れる鼓動と呼吸の音を鎮めながら、さらに耳を澄ましていく。
所詮は友人同士。そんな風に考えていたからこそ、耳に入ってきた言葉への理解が遅れる。
「そらが、ずっと好きだったんだよぉ……」
それを聞いて、思わず扉から離れた。
心臓がうるさくて、泣いてしまいそうで、胸の中がぐちゃぐちゃになる。
(せんせい、なんて答えるんだろう)
扉から離れてから、思った。返事を返すまで聞いていればよかったとも思うし、けど聞いたら余計に泣いてしまいそうでもあった。
混乱する中でたった一つ、はっきりと胸の奥から湧き上がる思い。
「せんせいを、渡したくない」
ぐっと、部屋の扉を睨む。
まずは……先生を、問い詰めなきゃ。
***
「せんせい、あの時の女の人、誰?」
あの事件から二、三日後。あたしはご飯を食べる先生に向かって声をかける。
先生は箸をおいて、ん~と顎に指をあてて考えた後に、ああと声を上げる。
「雪乃?」
親しそうなその呼び名に、また心が曇る。
「たぶん、そう」
「あ~……見られてたか」
もそもそとご飯を口に運ぶけど、味がよくわかんない。
けどそもそも今は、ご飯の味なんてどうでもいい。
あたしにとって大切なのはただ一つ、彼女と先生がどういう関係なのかだ。
「えっと……雪乃は私の友達で、というか遥、学校で見たことない?」
言われて首をかしげる。確かに、どこかで見たことあるような気はするのだけど、それがどこなのかは結局出てこなかった。
「雪乃は、遥が通う高校の先生だよ。保健室のね」
「保健室、行かないもん」
あたしはさぼるとき、保健室は絶対に候補に入れない。だって、温かくないから。それに、あの消毒薬の匂いが嫌いだから。
「そっか……なら、仕方ないか」
うんうんと一人納得しながら頷く先生。けれどあたしはまだ納得できていない。
「……本当に、友達なの?」
その言葉を聞いた瞬間に、先生の瞳が揺れる。
手に持った茶碗を一度置いた後、やけに寂しそうな顔をして先生は言った。
「友達……だよ」
その顔を、あたしは初めて見た。先生にそんな顔をさせるその『雪乃』という女性が、気になって仕方がない。
けれど、先生の顔を見るとこれ以上深くは聞けなかった。残りは、学校で情報を集めよう。
雪乃という名前と、保健室の先生だという二つの情報を頭のメモ帳に刻み込んだ。
ご飯をかき込んで、手を合わせて。ごちそうさまと言った後にかばんを取りに行く。
「……今日はやけにやる気だね。いつもはすぐ『行きたくない~』って言うのに」
「別に、普通だし?」
そりゃ学校なんて行きたくない。めんどくさい。けれど今は、今だけは一刻も早く情報を集め、真相を知りたかった。
そんなあたしを見て先生は生暖かい視線で見つめてくる。
「じゃあ、行こうか」
先生もあたしも準備を終わらせて、玄関を出た。
「「行ってきます」」
先生の家から学校まではそこそこの距離があって、通学にはバスを使っている。
超満員のバスの中。人ごみに押しつぶされて思わずきゅっと目を瞑った。
辛い環境の中、脳裏に描くのは先生の顔。
あたしにとっての学校は、避難場所だった。
授業は面倒だから出たくない。教師も信頼できない。けど家にいるのはそれ以上に辛い。
だからあたしは、授業から逃げ続けようって思っていたんだ
だけどあの日……あまりにも日差しが暖かそうだったから旧校舎の屋上で眠っていた日。
先生は春一番のように、私の心に吹き荒れた。
初めはなんとなく、綺麗だなって思った。あと、なんでって聞かれたら困るけど……直感的に、先生は信じられる気がした。
けど、先生が再び屋上に来ることはないだろうって思っていた。ただ気まぐれで、今日だけ注意しに来たのだと。けれどそんな予想に反して、先生はまた屋上に来てくれた。それが嬉しくて、胸の奥がほんのり温かくなったのを今でも覚えている。
二回目の時、あたしは先生にひとつ質問をした。
『せんせいってさ、なんで先生になったの?』って。
聞いたはいいけど、軽くあしらわれて終わりだと思っていた。
なのに、こんなあたしに大切な思い出ごと理由を教えてくれて。
その時の先生の、藍色の瞳はどこまでも真剣で、なんて返せばいいのかわからなくなっちゃって。
購買に買い物に行く。そんな言い訳で逃げようとして、転んじゃって。それで……
先生に、痣を見られて。
頭が真っ白になった。きっと先生は、あたしにもう関わってくれないだろうと思った。
慌てて先生から逃げた。見せたくなかった。先生にだけは。
走りながら、どうしてあの時転んでしまったんだろうっていう後悔だけが、胸に残り続けていた。
先生にも会えなくて、学校にも家にもいられずに街をふらふらとしていた。
漠然とした不安と迷いが、あたしの胸を押しつぶしていった。
そんな時にまた……また、先生は来てくれて。
思わず抱き着いて、泣いちゃって……そんなあたしを、先生は抱きしめてくれて。
しかもその後先生は、あたしの帰る場所も作ってくれて。
後から聞いた話だけど、あたしをあの家から先生の家に連れていくのに、面倒な手続きを沢山したらしくて。
……先生は、あたしを見つけて、抱きしめて、家を作ってくれた。
だから先生は、あたしにとって、とても大切な人なんだ。
『水篠高校前~』
バスのアナウンスで、意識は一気に過去から今へと戻る。
人で溢れるバスから何とか降りて、校門を潜る。
普段だったら教室にかばんだけを置き、今日はどこでさぼろうかを考えるんだけど……
今日のあたしにはやることがある。脳内のメモを参照しながら、行動を開始した。