第四幕・二話
私は雪乃と同じクラスだった。雪乃は静かに片隅で本を読むような、大人になった今からは想像がつかないくらいにおとなしい子だった。
最初の頃は、任せられた仕事の忙しさも会って誰かと仲良くなる余裕がなかった。
ある程度慣れて、放課後の教室に残って作業をしていた時のこと。
ふと、机の上に文庫本が一冊乗っかっていることに気が付く。席の主は、雪乃。
近づいて、思わず本を手に取った。ぱらぱらとページをめくるとその本が、私の好きな小説だと気が付いて心が揺れた。
がらり、といきなり教室のドアが開く。本を閉じて音のした方を向けば、雪乃がぽつりと立っていた。私の顔と、手に握られた本を交互に見ながら困ったように立ち尽くしていた。
「これ、あなたの?」
「そ、そうです」
話しかけると、何かに怯える小動物のようにびくりとしながら返事をする。
びくびくと彼女は私に近づいていき、本を受け取ると足早に教室から立ち去ろうとしていた。
その後ろ姿を見て、思わず声を掛けていた。
「あ、待って」
足が止まる。けれど振り返ることはなかった。私も、呼び止めたはいいけど雪乃の後ろ姿になんて言葉を掛ければいいのかが思いつかない。
「その本、面白いよね」
咄嗟に出た言葉。何の変哲もない言葉だったけど、私と雪乃を繋げるには充分だった。
背を向けていた彼女は振り向く。雪乃は本を抱き留めながら、ふにゃっとした笑顔でこくんと小さく頷いたんだ。
その出来事のおかげで、雪乃とは仲良くなれた。
本の話から始まって、音楽の話、お洒落の話、性格の話……
色々なことを話して、話せば話すほど雪乃の魅力に気が付いて。
気が付けば、雪乃は今のような性格になっていた。
優しくて、どこか穏やかな女の子に。
それは、二年生の秋の事。
私は、雪乃に一つの相談を持ち掛けていた。事の発端は、その相談の一日前。
放課後、雪乃が珍しく早く帰り暇を持て余していた時のこと。
同じクラスの男子に声をかけられて、人気の無い場所に連れていかれる。
何をされるのか、少し構えながら話を聞く。
目の前の男子は、意を決した様子でこの言葉を言ってきた。
「俺、春待さんのことが、好きです」
言われた言葉の意味を理解することに数秒がかかり、そしてなぜ自分がそう言われたのかという点でまた数秒を費やした。
思わず黙り込んでしまい、男子の声かけでふっと意識が帰ってくる。
「……その、返事は」
返事? イエスと言えば付き合い、ノーと言えば何も変わらないのか?
恋愛というものに慣れてなさ過ぎた私の脳内では『保留』という答え以外に何も導き出せない。
「ごめん、いきなり言われたから混乱しちゃって……返事、待ってもらってもいい?」
言うと彼は分かったと言ってその場を後にした。一人残された私はどうすればいいのか分からなくて……ふと、雪乃の顔が、脳裏に浮かんだ。
だから私は、雪乃に相談があると話し、教室で待ってもらうように頼んだんだ。
委員会の仕事を終えて、教室の扉を開けると一人本を読みながら待つ雪乃の姿。
「ごめん、待たせた」
「ううん、大丈夫」
声を掛けると雪乃はぱたりと本を閉じて、私の方を向く。
「でさ、さっそく相談なんだけど」
何故か緊張した。彼女にこの出来事を話すのが。
「私、告白された……どうしたら、いいと思う?」
聞くと、困ったような顔をしながら雪乃は笑う。そういえば、雪乃は告白されたことがあるのだろうか。
うんうんと唸る雪乃を眺めて数秒。目を開いた彼女が出した答えは。
「空の好きにするしか、ないんじゃないかな」
……好きにする。それが分からないから聞いているのに。そう思ったけど、それを言ったところで何も変えられない。だから私は、雪乃に別の質問をした。
「ねえ、雪乃。雪乃だったら、どうする?」
聞くと再び考え込む。それこそ数十秒たっぷり悩んだ後に、彼女は結論を出した。
「断る、ん、じゃないかな」
その答えを聞いて、なぜか安心する私がいた。雲一面の空に僅かな晴れ間が射したような、そんな気分。
「ありがと、雪乃」
教室から出た。この日の橙色の空が、やけに明るく見えた。
結論から言うと、私は告白を断った。彼を、好きになれないと感じたから。
勿論直接そんな事は言わなかった訳だけど、まあともかく私は彼を振ったわけだ。
事の顛末を、雪乃に教えようとは何度か思った。けど、自分からは何だか話しにくくて。
そのまま、雪乃に話すことなく、また時間がたった。
「告白、された」
オレンジ色に染まる教室の中、二人きり。おもむろに本を閉じた雪乃は、いきなりそう切り出してきた。
「雪乃が?」
彼女はこくんと頷く。私は雪乃が告白される状況が想像できなくて、思わず笑ってしまう。
「なんで、そんなに笑うの」
不機嫌そうに口を尖らせて言う雪乃。申し訳ないと思いつつも、笑いが止められない。
「だって、あの雪乃が、でしょ?」
引っ込み思案で、大人しくて、口下手な雪乃が……そう思ったけど、最近の彼女はちょっとだけ変わったから。
「ねえ、どうしたらいい?」
聞かれて、固まる。思い出すのは私が雪乃に聞いたとき。
あの時は雪乃、なんて答えたっけ? 確か……好きにしたらいい、だ。
覚えているけれど、それを彼女には言えなかった。だから
「雪乃は……どう、したいの?」
絞りだした言葉はそれだった。雪乃がしたいようにしてほしい。
……私には、したいことが分かんなかったけど。
答えを聞いた雪乃は噛みしめるように言葉を聞いて、じっと鳶色の瞳で私を見つめる。
そして、はっと息をのんだ後、ほんの少し視線をずらす。雪乃の、唇が揺れた。
「ねえ、空。わたしがもし、女の子を好きだとしたら」
その言葉を聞いて、ほんの少しの胸の高鳴りと、恐怖を感じたんだ。
「……それでも、雪乃の恋を応援するよ」
だから……あの頃の私は、雪乃にそう言うのが精一杯だったんだ。
一人、帰りながら雪乃の事を考えていた。
雪乃がもし、告白を受けるなら。きっと私とはほんの少しだけ距離が離れる。
ほんの少しだけ話す時間が減る。ほんの少しだけ……
考えて、気が付いた。ああ、私って。
――思った以上に、雪乃と一緒に居たんだな。
「告白、断っちゃったんだ」
「うん」
「受けると思ってた」
本を読みながら、雪乃に声を掛ける。
雪乃は本を持っているものの、心ここにあらずと言う感じだった。だって、本のページがさっきから全く動いていない。
ため息を吐きながら本を見つめる雪乃を見た。告白を断ってから、彼女は私と何も変わらずに付き合い続けている。何も、変わらなかった学生生活。
私は、勘づいていた。雪乃が私に向ける感情が、普通の友情とはほんの少しだけ違うことを。
そしてそれを、受け入れられそうな自分がいることも。
けれどそれを口に出して……確かめて、何かが崩れてしまうのが怖くて。
何も言えないまま私は、雪乃の隣に居続けたんだ。
結局、雪乃とは最後まで『友達』のままだった。連絡先を交換し、別々の大学に行った。
卒業するときは、心にぽっかりと大穴が開いたようだった。
卒業式を過ぎ、大学に通うようになってふと、雪乃の姿を探している自分に気が付いて。
彼女が居ない今に、慣れなきゃいけないって思ったんだ。