第四幕・一話
切なそうにさよならを告げるあなたの顔を。
笑顔にすることが出来たんじゃないかって、今でも思うんだ。
新しい職場、新しい教室にもようやく慣れ始め、変化があった家の生活も落ち着いてきた初夏の事。
私、春待空は同僚の冬原雪乃に誘われて居酒屋に居た。
「そら~」
「はいはい、なんですか?」
冬原雪乃。かつての高校の同級生で、なおかつ前の職場の同僚でもあった人物。
保健教諭と教師は微妙に違うけれど、勤務時間は結局似るのでなんだかんだで交流が続いている。
職業柄、なかなか居酒屋には行かないがスーツ姿のサラリーマンが奏でる喧騒はまさに居酒屋! という感じで悪くは無かった。
そんな中で、対面に座ればいいのにわざわざ私の横に座り、酔って寄っかかってくるのがこの冬原雪乃という人物だ。
「はぁ……ビール追加で!」
「あーい!」
「まだ飲むの……? 大丈夫?」
「大丈夫だって~」
鳶色の癖っ毛を撫でまわしながら、膝に乗っかった雪乃を眺める。
その姿がまるで大きな猫の様で……うちにいる、猫のような少女を思いだす。
「仕方ないなぁ」
重いし、膝だって痺れる。けれど、なんだかんだで撫でるのは楽しくて、心地いい。
雪乃とは、高校時代からの仲。同じ高校に入学し、ある出来事がきっかけで仲良くなった。
保健室の先生を目指す事は高校時代に聞いていたけれど、まさかいきなり同じ学校に配属されることになるとは思っていなくて、驚いた記憶がある。
まあ、そんなこんなで腐れ縁ともいえる友人だ。
「で、何で誘ったの」
むにゃむにゃ言ってる雪乃に聞く。彼女がこんな風に私を誘い、こんな風に酔う時は大抵面倒くさい悩みを抱えている時だ。
「なんで?」
自覚がないのか、きょとんとした表情で私を見る雪乃。口がぽかんとあいていて何とも間抜けな表情だった。
「はぁ……」
思わず出るため息。いや、雪乃の悩みを聞くのは嫌いじゃないんだけど。
「雪乃が私を誘う時って、大抵何かがあった時でしょ」
言うと雪乃は一回口をつぐんだ後、にへらっとやわらかく笑う。
この、雪乃の笑顔に何度ほだされて曖昧にされてきただろうか。
そう思うくらいにはこの可愛い笑顔を、見てきた。
「何か……いや、あるんだけどぉ」
ゆっくりと考え込んだ後、ぽっと雪乃の顔が赤くなる。
「ビールお持ちしました!」
店員の威勢のいい声と共にビールが運ばれてくる。それを雪乃はぐっと掴んで一気に喉に流し込んでいく。見ているこっちが心配になる飲みっぷりだった。
「んっ……はぁ……」
「飲むね、今日は」
言いながら私も自分のグラスに口をつけた。カシスオレンジの爽やかな甘さをゆっくりと楽しむ。苦いものが苦手で、一握りのカクテルとサワーしか飲めないような人間にとっては、ビールをガンガン飲む雪乃を凄いと思ってしまう。……ああなりたいとは、思わないけど。
ぷはーっと勢いよく息を吐き出して、雪乃はまたわたしの上で横になる。ビールを膝の上に零されないかと思うと少し心配だが、彼女の安心しきった顔を見ると、どけとは言えない。
雪乃の唇が動く。彼女は酔いがあまり顔に出ないはずなのに、今はやけに顔が赤かった。
「あ、そう、元気してる? あの子」
「あの子……ああ、遥?」
「そうそう」
聞かれて、顎に指をあてて考える。最近一緒に住む事になった、栗色の髪の猫みたいな少女の事を。同居するようになってから何かあったかを考えるけど、もとより少ない家事が増えたくらい。彼女の性格が何か変わったとかも、無さそうだし。
「ん~……元気だよ。うん、普通に」
そう言う私の顔を、微笑を浮かべながらじっと見つめる雪乃。その笑みは、とても楽しそうだった。
「ふ~ん……楽しそ」
言われて、一人で暮らしていた頃と今の暮らしを比較する。
「うん、楽しいよ」
心の底から出た言葉。それを聞いて雪乃は安心したかのように頷いた。
「そっか」
そんな会話の後、互いにしばらく無言でお酒を飲んでいた。
***
「そら……」
「なに?」
空いたグラスが増えていき、雪乃の声が蕩け始める。
その困った顔はあの頃から変わらない。変わらなすぎて、どうにも今の年齢より幼く見える。
「……生徒に、告白された」
「ふふっ」
その言葉を聞いて笑ってしまう。雪乃が告白される状況がいまいち想像できなくて。
「こら、笑うな」
「だって、雪乃がって思うと」
「雪乃がって、どういう事よ~」
口先を尖らせて文句を言う雪乃。思わず滲んでしまった涙を拭きながら、雪乃の顔を覗き込んで数える。昔の頃の雪乃を思い出すと、思わず口角が上がる。
「抜けた所多くて、口下手で、声もちっちゃくて……」
「それは昔の話だし~」
文句を言いながら変わらず酒を流し込む雪乃。居酒屋の客も、減ってきている。
「……まあ、今もダメダメなままだし、別にそれはいいんだけどさ」
声はふにゃふにゃで、顔は真っ赤。今まで見た中で一番と言っていいくらいに、ひどい酔い方。
「女の子に告白されるなんて、思わなかった」
その言葉を聞いて、納得する。と同時に、気を引き締める。
「そりゃ、こんなになるまで飲む訳だ」
三割ほど残っていたカシスオレンジをぐっと飲みこむ。吐く息が、熱い。
「思い出すね」
「何を?」
ここまでふにゃふにゃでは流石に無かったけれど、弱りながら私に声をかける若き雪乃の姿。
「高校時代の相談。あの時の雪乃の、笑っちゃうくらいに真剣な顔も」
「忘れて」
「『空、わたし告白された』って」
「忘れてよ~!」
「忘れる訳、ないじゃん」
そう、忘れる訳ないんだ。あの時の出来事は。
……昔、高校の頃の事。私は雪乃に、恋愛相談をされた。
誰を好きだと、彼女が言う事は無かった。
けれど、雪乃は言った。女性が好きだと。その告白は、私にとって相当衝撃的だった。
「あの時さ、なんて相談されたかは覚えてるんだけど、なんて答えたかは覚えてないんだよね」
嘘だった。あの時、雪乃に言った言葉は一字一句覚えている。
『雪乃の恋を応援するよ』って、茜色に染められたあの教室の中で言ったんだ。
目の前の彼女から微かに感じる好意を、受け取れると思った自分に困惑しながら。
「……そっか」
雪乃は、寂しそうに笑った。まるで、あの時と同じように。
……彼女は最後まで、私に好きな人の名を言う事は無かった。
そして私は……彼女が打ち明けるのを待ち続け、結局自分からは何もしなかったんだ。
「それで、答えるの?」
「……わかんない」
雪乃の鳶色の瞳が揺れる。私の顔をじっと、穴が開くように見つめていた。
あの頃から成長した……いや、したか? 幼い所は多いし、鳶色の短いくせっ毛も、その丸っこい童顔も幼さを助長している。
私の顔を見て何を思ったのかは知らないけど、雪乃は一度おもむろに起き上がりビールを飲んで、また私の膝の上に眠る。
「ねえ、雪乃」
「なに?」
返す声に若干の不満を感じ取って、少しだけ撫でる手を優しくする。
「私の話も聞いてよ」
「いいよ……どうせ拾った子の話でしょ?」
そう言われると、本当に遥が捨て猫みたいになってしまう。
「拾ったって言わないでよ……保護したの」
「似たようなもんでしょ」
雪乃はけらけらと笑う。二か月ほど前、近況報告として雪乃にこの話をしたら物凄い勢いで笑われた挙句に「未成年略取だ~」とか言って散々にからかわれた。
あの時の事を思い出して思わずため息を吐いた。視線を下に向けると、丸まって寝っ転がる雪乃。その姿が本当に遥に似ていて。思わず口から出てしまった。
「……今の雪乃みたい」
「どういう意味よ」
そのままの意味……というかそう。今日の雪乃の誘いに乗ったのはこっちの話もあるから。
「……最近、遥が甘えん坊でさ。まあ、仕方ないのかなって思うけど……毎朝、気が付いたら私のベッドに入り込んでるの」
そう……最近やけに、遥の距離感が近い。寝ている時だけじゃなくて、食事の時もそうだし、この前は勉強を教えてほしいって言いながら膝の上に乗っかってきたこともある。
「懐かれてんじゃん。やなの?」
考える。面倒だなって思う事は多い……けど。
「嫌って訳じゃないけど……」
潜り込んで、顔を擦り付けてくる遥の姿は……素直にかわいいと、思う。
「嬉しそうな顔、してるよ?」
「……そう?」
雪乃に言われて、自分がそんなに緩んだ表情をしたのかと思ってしまう。思わず顔を一度引き締めた。
そんな私の顔を見て、雪乃は何かに気付いたようにはっとした後……私の膝の上で、お酒を追加注文していた。
明らかに許容量を超える量の酒を飲んでいく雪乃。何度も静止の声をかけたが全く止まる気配は無く、気が付けば雪乃は「きゅ~」という鳴き声と共に意識を失っていた。
また出るため息。あどけない寝顔。仕方ないと思いながら会計を済ませ、雪乃を肩に担いだ。
夜道を歩きながら考える。雪乃の家を知らない訳では無いけれど、抱えたまま雪乃の家に行き逆方向の自分の家に帰るのは流石に面倒だった。
家にいる遥の事も考えたけど……まあ、何かが起こるわけではないだろう。
そんな思いで私はとりあえず、雪乃を家に連れ帰ることにした。
火照った体に、夜風が心地よかった。真っ赤になった雪乃の顔を見る。
……本当に、幼く見える。これで生徒からは『頼れる優しい先生』だと思われているのだから、彼女が普段どれだけ頑張っているがわかる。
思い出す。高校時代の事を。私と雪乃の、関係を。