第一幕・一話
わたしは、待っている。
氷室美冬という保健室の常連を。
……保健室というのは、出来れば利用しないほうがいい所。
だからこそ、そんな場所で生徒を待つなんて教師失格なのかもしれない。
それでも、待つ。思い出すのはどこまでも凛々しく真剣な彼女の顔。
「……先生に相応しい人になります。だから、その時まで」
思い出すと、思わず顔が熱くなり、そして同時に胸の奥が疼く。
熱を冷ますように頭を振って、外を見れば桜が舞っていた。
あの日、初めて出会った時とは対照的なよく晴れた青空。
彼女と初めて会ったのは……冷たい雨の降る、霜月の事だった。
保健室に来る生徒というものは様々である。だがそのうちのほとんどは病気か怪我でもある。
治療を施し、重病ならば家族や病院にお任せする。そんな、保健教諭の仕事にようやく慣れてきた頃。
わたし……冬原雪乃の下に、氷室美冬という生徒はやってきたのだ。
それは十一月、冷たい雨の降る日の出来事。
コツコツと、雨音に混じるような小さな音。初めは気のせいだと思っていたが、一定間隔でなるその音がノックだと気が付いて扉の向こうへと声をかけた。
「どうぞ、空いてますよ」
控えめに扉が開く。顔を出すのは、一人の女子生徒だった。
短く切り揃えられた黒髪。華奢な体つきに、白く端正な顔。どこか少年っぽいと思わせるような風貌だった。けど、それ以上に印象に残っているのは冷たくて、それなのに今にも泣きだしそうなその瞳だった。
「ほら、座って。今日はどうしたの?」
椅子を差し出しながら催促をすれば、彼女は扉を閉め部屋の中に入る。
ぱっと見、どこか悪いようには見えなかった。自分も座りつつ、目の前の少女を観察する。
彼女は、差し出した椅子に座ることなくただただ、立ち尽くしていた。
じっと、薬品の入った棚を眺めながら。
「怪我したの? それとも病気?」
聞くとようやく彼女はこちらを向いた。ゆるゆると首を振り、それは違うと示していた。
「じゃあ、体調は大丈夫なのね」
コクリと頷く。それを聞いてわたしは安心していた。喋れないくらいに辛い病気という訳では無いらしい。けどならば、なぜ保健室に来たのだろうという疑問がわく。
彼女は未だに立ったまま、一言も発さなかった。現在の授業は三時間目で、彼女がもし担当の教師に何も言わずにここに来たのなら、わたしは彼女をさぼりとして報告しなければいけない。
けれどわたしは、それをする気にはなれなかった。
目の前の彼女は相変わらず座らない。その姿を見てわたしは静かに机に向かいなおす。
紙のこすれる音と窓を叩く雨の音。そして微かな呼吸の音が保健室を支配していた。
「……先生」
小さく、ハスキーな声だった。凪いだ湖に滴る雫のように保健室に響いたその言葉。
「ん?」
出来るだけ優しく、笑顔で返事を返す。彼女はきっと、何かを求めてこの場所に来ていると感じたから。
だから私にできる最初の事は、彼女から話を聞く事。
彼女はなかなか話し出さない。ただじっと、わたしの顔を見つめ続けている。
「……やっぱり、綺麗」
ぽつりと、薄桜色の唇が紡いだ言葉。思わず聞き逃してしまいそうなくらいに小さな声だったけど、この静かな場所では正確にわたしの耳に届く。
「……へ?」
いったいどんな話をされるのか。そう思っていたからこそ、聞こえたその言葉を理解することに時間がかかった。
混乱しているわたしの前で、彼女の顔は急激に赤くなっていく。
何を言ったのかに気が付いたようで、目がきょろきょろと泳ぎ始める。
「し、失礼します!」
「あっ……」
彼女は一瞬で保健室から出て行ってしまう。残されるのはわたし一人。
思わず小首をかしげ、そして考えた。彼女の言葉の意味と、脳裏に引っかかる何かを。
***
こんこんと、聞こえるか聞こえないかぎりぎりなノックの音。
彼女はちょうど一週間後の同じ時間にやってきた。
「どうぞ、開いてますよ」
返事をすると前と同じようにするりと彼女は入ってくる。
だが、前回からの変化もあった。椅子を差し出すと、彼女は座ったのだ。
その変化にほんの少しだけ驚きながら、対面する。
彼女から話し始めることはやはり無い。こちらの顔を見ては、顔を逸らしてを繰り返す。
「……氷室、さん?」
名前を呼ぶとびくりと肩を揺らして、目を見開きながらわたしを見た。
「どうして?」
「あの時、会った子でしょ? ほら、入学式の時」
どこかで聞いた声だと思った。脳裏に引っかかったそれは過去にあった一つの出来事を思い出させた。
それは入学式の事。保健室で待機していると、綺麗なロングヘアーの新入生が保健室に入ってきたことがあった。
聞くとどうやら道に迷ったらしくて、廊下に出て体育館までの道を教えてあげた。
「あ、ありがとうございます」
お礼の言葉。その声が、お人形さんのような見た目に反して低かったなぁと思ったのだ。
「大丈夫。困ったら、いつでも保健室にきてね」
そう言ってわたしは彼女の背中を見送った。
あの時の子だとすぐに思い出せなかったのは、きっと髪型のせい。失恋でもしたのかと思うくらいにはバッサリと切られたその髪型は、余りにもあの時と違った。
「覚えてるんですね」
「先週は思い出せなかったけど」
苦笑い。あまりに印象が違うと言っても、声ですぐに思い出せなかったのは少し悔しかった。
目の前の彼女はまたわたしの事をじっと見つめていた。その状況に既視感を覚える。
「また、綺麗っていうの?」
「あ、あれは違うんです!」
慌てて否定する姿がおかしくて、思わず笑ってしまった。
「忘れてください……あれは、その、何言えばいいのかわかんなくて言っちゃったやつなので……」
「そっか……それで、何を話しにきたのかな?」
目の前の彼女ははっと何かに気付いたような表情の後、少し緊張した面持ちで話し始めた。
「先生に、相談したい頃があって」
耳を傾ける。一字一句を聞き逃さないように。
「……僕、好きな人がいて」
僕という一人称は新鮮だったけど、彼女には似合っていると感じた。
耳まで真っ赤にしながら、そう打ち明けるその姿はどこまでもいじらしく、可愛かった。
(恋愛相談かぁ……アドバイス、出来るかなぁ)
一抹の不安を覚えつつ、言葉を返した。
「好きな人……どんな人かって聞いてもいい?」
「あ、はい。その人は優しくて……いつも穏やかで、頼りになる人です」
いい評価ばかり。そんな評価を受ける人がいるなら、見てみたい気もする。
「いい人なんだね」
「はい……けど」
「けど?」
目の前の彼女はぐっと息を飲んだ後、意を決したかのようにわたしに言った。
「その人、女性、なんです……」