ロンドン・ブリッジ駅にて (8)
富裕層、特に上流階級の人々は人道主義と博愛主義の観点から数々の篤志病院の設立に助力してきました。人口が急増したロンドンの貧民の救済に持て余した不労所得を投じ、慈善活動に積極的に勤しみました。慈善団体や病院での看護も活動の一つでしたが、日々の糧に心身を煩わせる必要のない貴婦人が考える看護という仕事は、医師への理性ある服従や、倫理観を高くして学ぶ姿勢や、上流階級の選民意識から来る自尊心が生み出す尊大な態度の自制に欠けていました。衛生観念の欠如もひどいものでした。夜間は肌荒れを気にして窓とカーテンを閉め切った空気が淀む部屋で過ごし、人でごった返す舞踏会へと繰り出して不衛生な人々と接触し、紅茶とパウンドケーキのみの栄養が偏る食事が流行り、下剤が美しい肌を作ると信じ、疲れたと言っては気付け薬と称してオーデコロンや炭酸アンモニア水、ジエチルエーテルを飲むのが常でした。裕福なはずの彼女達が貧しい人々と同じ結核で死亡する裏には、こうした不養生な悪習があったのです。
彼女達は、思い描いていた清貧で美しい奉仕生活と現実の違いに困惑したに違いありません。メアリー・ムーア修道院長が掲げた「労働」と「奉仕」の義務とは、命の瀬戸際で喘ぐ貧しい人々の救済を目的とする実戦でした。食料不足と栄養不足による餓死の数々に直面し、銃弾が飛び交う代わりに疫病が蔓延する戦場に放り込まれた淑女達の労働に対する熱が冷めたのは想像に難くありますまい。ムーア修道院長がアイルランドに戻ってしばらく修道院を空けたある時期、彼女達は黙って労働を捨て去りました。修道院に篭もり、閉ざされた静謐な世界で祈りと黙想に耽溺しました。それを知ったムーア修道院長は直ちに修道院に戻り、彼女達を労働に引き戻したのでした。
大お母様はバーモンジー修道院の行動力溢れる「労働」と、それを実践する指導者であるムーア修道院長を高く評価しておられました。看護婦になる前はウェストミンスター寺院に隣接する国教会の聖マーガレット教会の礼拝に家族揃って通われていた婦長でしたが、国教会の教義に真摯に向き合う中でカトリックに刺激と魅力を感じるようになられました。それは一時期カトリックへの改宗を真剣に考えさせたほどで(やんわりと断られたそうですが)、大お母様がバーモンジー修道院の修道女達を看護団に引き入れるのに抵抗を感じなかった理由がおわかりでしょう。ところが、大お母様が看護団の婦長に任命されることを見越して慈悲の聖母童貞会に協力を打診すると、カトリック側からも反発の声が挙がったのです。大お母様は激務の合間を縫って自らダブリンに赴き、当時カトリックに改宗して間もないヘニング・マンケル枢機卿と慈悲の聖母童貞会のキャサリン・マコーリー修道院長に許可を求めて交渉されました。