ロンドン・ブリッジ駅にて (6)
カトリックに関しては、アイルランドについて触れないわけには参りません。アイルランドを襲った大飢饉が終結したのは、戦争よりわずか4年前の1849年でした。当時のアイルランドの全人口の6割以上が農民であり、産業革命を成し遂げた英国に経済力で圧倒されていました。農民の半数以上は5エーカー(約2万平方メートル)ばかりの土地しか持たず、その小さな土地で、アイルランドの寒冷な気候でも育つ馬鈴薯を細々と育てて日々を食いつないでいました。馬鈴薯は生産性が高く、地主に納めなくてもよい麦に代わって命綱となりました。
ところが、長雨と冷害が続いて作物が弱ったところに、アイルランド南東部のウォーターフォード港とウェックスフォード港からもたらされた疫病ーー立枯病が瞬く間にアイルランド全土を汚染したのです。緑鮮やかな馬鈴薯畑は黒に染まり、悪臭で満ち、9割が立枯病によって壊死しました。不幸にも農民は馬鈴薯を一つの品種に依存しており、不作に備えて複数の品種を育てておくなど、慢性的な貧困に喘ぐ彼らに望むべくもありませんでした。
当時の英国政府のサー・ロバート・ピール内閣はアイルランド国外への食料輸出を禁止し、アメリカから大量のとうもろこしを輸入するなどの救済策を講じましたが、英国の農業を保護する穀物法の存在によって阻まれました。アイルランドの領主や地主の多くがイングランド在住であり、農民が直面する死の危機をよそに穀物の価格の下落を嫌って政府に激しく反発したのです。政府はどうにか穀物法の廃止にこぎつけたものの、あえなく総辞職に追い込まれました。次に誕生したジョン・ラッセル内閣は、あろうことか経済を自由放任主義に委ねました。政府は救済に消極的になり、穀物の輸出も禁じなかったために、餓死者と病死者が山積みになった地獄の様相を呈したアイルランドから穀物が根こそぎ奪われる事態が続きました。
少しでも体が動く人は他国へと渡ってゆきました。英語が通じる英国、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどの国々へ、後に「棺桶船」と呼ばれた粗末な作りの船に詰め込まれ、劣悪な環境に耐えて新天地を目指しました。航海の途中で2割以上の人が亡くなったと言われており、命からがら目的地にたどり着いたとしても、彼らは辛苦から逃れられませんでした。特に、英国と同様にプロテスタントが多数派であるアメリカでは、そこでもカトリックであることが壁になりました。「アイルランド人お断り」と書かれた求人広告は珍しくなかったのです。この悲劇がもたらした死者は100万人を下らず、国外脱出によってアイルランドの人口は半減したと言われています。アイルランドの人々の英国人に対する煮えたぎるような怒りが冷めやる日はいつになるのか、果たしてその日は来るのだろうか、英国人の私に想像する権利はないのやもしれません。