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天使の述懐  作者: 多胡真白
第1章 1854年 秋
10/10

ロンドン・ブリッジ駅にて (10)

 大お母様は一瞥で観察を済ませると、上等なスカートの裾が床の土埃で汚れるのにも構わずに屈み、私の手首や足首を触って痛みの有無を確認しました。脛のあざを見るためにスカートの裾をめくられたときは、通り過ぎる人達に好奇の視線を向けられて恥ずかしさを覚えました。私は差し出された手を取り、肩に手を添えて支えられて立つと、恥ずかしさと情けなさから早口で言い訳をするように謝りました。

「申し訳ございません、ミス・ナイチンゲール。ご迷惑をおかけしました」

「ミス・ソーン、本日から私のことは婦長と呼ぶように申しましたでしょう。あなたは私に私的に雇われていても、看護団の立派な一員なのです。気を引き締めて下さい」

「申し訳ありません、婦長」

「とにかく、怪我がないようで何よりです。念のため、ドーヴァーに着いたら船に乗る前に医師に診てもらいましょう」

 大お母様は私とはまるで正反対の控えめな服装でした。白地の無地のシャツの上に黒のジャケットを着て、灰色のフレアスカートを合わせ、細身の黒の傘のハンドルを手首にぶら下げていました。唯一彩り鮮やかな菖蒲の花飾りの帽子が、上等な生地の服を引き立てていました。

 事情をご存知ない方は、この三十四歳の女性を寄る辺無き中年のガヴァネスと見たでしょう。しかし、見る方が見ればすぐにおわかりになるはずです。自信に満ちた目、しなやかな立ち居振る舞い、優雅な歩きは、正に上流階級たる淑女に相応しくありました。傍にいると社交経験の乏しさを感じずにはいられず、否が応でも自分がジェントリ気取りの中産階級の娘だと意識してしまい、劣等感を覚えて目を伏せました。すると大お母様のうしろに先程落とされた本があるのに気付き、視線から逃げるようにして拾いに行きました。

 拾い上げた本の埃を丁寧に払って大お母様にお渡ししたとき、背表紙に書かれたフランス語の表題が目に留まりました。小口に日焼けと手垢がついており、大切に読み込まれた年月を感じました。

「ミス・ソーンはフランス語を学ばれていたのでしたね。気になりましたか?」

「基礎的な読み書き程度であれば……。医学書ですか?」

「『人間とその諸能力の発達について、あるいは社会物理学』。ベルギーの数学者であり天文学者でもあるアドルフ・ケトレー先生の統計学に関する論文集です」

「統計学……?」

「ケトレー先生は、天文学の観察方法を社会や人間の分析に応用されました。惑星に重心があるように、人間の集団にも平均があると考えられたのです。道中で学んで頂くつもりでしたが、よい機会です。一例を挙げましょう。先生はスコットランドの民兵の身体測定の記録から胸囲の度数分布を分析しました」

 私は度数分布表という単語の意味を知らずばつが悪くありましたが、大お母様はそのようなことなど想定済みでいらっしゃいました。

「度数分布とは、データと呼ばれる数えられる資料を集め、データを一定の幅で区切り、区切りごとのデータの個数をまとめた記録です。例えば、胸囲が36インチ(約91.4センチメートル)の者が10名、37インチ(約94センチメートル)の者が20名といった具合です。よろしいですか?」

 私は頷きました。

「ケトレー先生は、胸囲を1インチ(約2.5センチメートル)ごとに兵士の人数を分類しました。第1アーガイル連隊686名の胸囲の幅は、34インチ(約86.4センチ)から47センチ(約119.4センチ)でした。彼らの胸囲とその人数にはどのような関係が表れたと思いますか?」

 私は少し考えてから率直に答えました。無意識に大お母様のご期待に沿う回答を探ろうとしたものの、大お母様の視線がそれを望んでいないことを示していました。

「何も関係なかったのではないでしょうか。年齢、体質、生まれ育った環境、普段の食事の内容、いずれも人によって全く異なります。胸囲も同様だと思います」

「いいえ、40インチ(約1メートル)前後を境にして比例と反比例の関係になりました。最小の胸囲が34インチでわずか1名です。そこから胸囲が大きくなるにつれて人数が増え、40インチ(約100センチ)で最も人数が多い57名になります。それ以上になると人数が減り、最大である47インチの兵士は1名です。この分布を曲線の図にすると、曲線は左右対称に近付きます。これを正規分布と呼び、統計学で特に重要な概念です」


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