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キとラの間   作者: 海野みうみ
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第六章 アハアハ・2030

30年前の約束の日を迎えた玲子のその後。

娘の未央は、仕事では成功したものの、母親との再会に苦慮します。

 むかしむかしあるところに、たいそうびっくらこいてしまったおっちゃんがおりました。齢を重ね、時を待ち、あこがれの海に冒険に出たおっちゃんは、西の方にずーっと進んでみたところ、一か八かで命カラガラ、東の国にたどり着いてしまったのです。西と東って海のむこうでつながっててサ、どっち行ってもそのうちこっちに着くんだぜ、と、おっちゃんは初めて宣言した文明人となりましたとさ。メデタシ、メデタシ。


 いんや、ところがまぁびっくらこいたのなんのって、さっきまでのびっくらなんかこっちのびっくらに比べたら、大したびっくらとは言えないと来たもんなんですからね。残念ながら、おっちゃんの仲間たちは自由に解放されてしまって、金銀財宝ザックザクの新世界で踊り狂ってしまいます。何が新しいんだかご存じないその土地の人々を、メッタ殺しに殺してしまったくらいです。


 悪魔でも収拾つかない大饗宴に責任を感じたおっちゃんは、お気の毒に、苦悩の日々を送りました。土地の人々の運命も、お宝の再配分の方法も、流れ着いたこの土地が一体どこなのかさえ、おっちゃんには分かりません。結局は、頑強な宗教権力におまかせするしかありません。アツアツの信仰煮える指導者は、おっちゃんの国にも近所にも、わんさといらっしゃったのです。


 その後もケツにアツアツの火がついた坊さんたちは、どんどん西だか東だかへ、あらゆる海を森を抜け、砂漠も氷河も何のその、どこで野垂れ死のうとも、どういうワケだか進みまくっておりした。先々で信仰のギラギラを押しつけたり、文明とやらを見せつけたり、アブない武器を売りつけたり、おっそろしい病原菌を持ち込んだり、厄介ごとを各地で演じては満足の体でおりました。


 そして取り残されたおっちゃんは、お気の毒を重ねた日々に疲れてしまい、何の答えも見つからないまま死んでしまいましたとさ。チャンチャン。


 というわけで、今となっては、西も東もどこからどこだかサッパリ分からなくなったんで、そういう区別は忘れてしまってはいかがでしょう。おっちゃんの苦悩の日々から500年、あんまりぐるぐる地球を回ったんでもうバターにでもなってしまいそうなヒヒヒヒヒ…孫のアリー青年だってがんばってるんですから、希望はあります。今更何だ、東は東だとお怒りの方もいらっしゃるでしょうが、皆さん、ご自分の国がちっぽけな島だって言われて、納得できなかった頃もありましたよね。ホントなんで仕方ないでしょ。怒らないで笑ってみれば、もっと楽しくやれたんですよ。


 え、そんなむかしむかしのお話はもう結構ですって?では、今となってはもう未来のお話をいたしましょう。


 …ポーン…



 ある水っぽい島国に、もう一人お気の毒な父親がおりました。正確には、まだお気の毒の直前にいるこのおっちゃんは、自分がお気の毒だなどと感じたことはなく、感じさせるようなことがあると想像したこともありません。無理もないのです。保険会社の覚えもメデタイけっこうカタギな仕事を持ち、五十路を前にちょっとした庭付きの我が家を建築し、前々妻の息子がこの春我が家から通いたいと言うので色々とマメに準備し、ウキウキと役に立つ自分を楽しんでいたのですから。妻たちとの難儀な結婚生活にはしばし別れを告げ、息子と水入らずの共同生活に集中してみるのも、健全でアクティブな中年ライフを明るく飾るネタになると思ったのです。何しろ家事が好きなおっちゃんであり、在宅勤務でガーデニングにいそいそしてみたいと昔から夢見ていたくらいなのですから。


 おっちゃんの息子という高校生は、母親が数年でコロコロ入れ替わったり、父親がいたりいなかったり急に出現したりする常識的な家庭環境で育ち、人間の絆の綱渡りをひょいひょい渡る大変たくましい少年です。たとえどこで生活することになっても、真空パックで新鮮・クールに直送されるつもりで人生を学んでおりました。


 21世紀の文明人は、幸せやら自由やらを求めてウロチョロしっ放しに生きています。元砂漠の国々の伝統とは大いに違い、何かを信じることもあまりなくなってはしまいましたが、以外にも少子化は停滞して進んでいないようです。当然の結果としてあちこちに子供ができていたり、兄がいたり姉がいたり弟がいたり妹がいたり、同世代の伯父さんや叔父さんや伯母さんや叔母さんがいたりするのを知っていたり知らなかったりする自由を人々は手にし、子供たちも人見知りしたりいじけたりしているヒマはなく適応力がつくというので、けっこういいんじゃないですか、と政府の保護もまあまあブ厚くされてるんですよね。電気が不足することもなくなったので。まぁ、真暗闇の夜でもできることはあるんだよと、大人たちは含み笑いに言いますが。


 そんなトコロである日の午前、息子との朝食の後片付けを終え、庭に立ち、キラキラする春の花たちを満足気に見ているおっちゃんは、午後は買い物に出掛けようか、それともネット注文してどっさり届けてもらおうかどうしようかとノンキに考えているところです。


 さあ、お気の毒はもう目の前。


 おっちゃんはふんふん歌いながら、こんな午後は花に囲まれてゆったりひと仕事ときたもんだ、と思い至ったのでした。このちょっとした決断を一生後悔するとは知らず、まだ上機嫌のおっちゃんです。


 かくして10分24秒後、おっちゃんは恐怖のドン底にありました。どうしたことでしょう、子供の頃にチビリそうになった思い出のある、口裂け女に襲われてしまいます。何という修羅場でしょう。髪を振り乱したこの世のモノかわからない女に襲われるおぼえは、おっちゃんにはありません。女は叫び、素手で襲いかかり、引っ掻くやら殴るやらで、おっちゃんはたちまちにして血だらけになってしまいます。ワケわかりません。とにかくぜんっぜんわかりません。わからなくって痛くって、足腰はヘロヘロになっています。自信はあまりないものの、この世のモノであるなら知らない人だし、しかし何よりおっちゃんの名前が断末魔の叫びに含まれているのは間違いなく、おっそろしいったらありゃしないのです。解読を試みると、女は、おっちゃんのせいで人生メチャクチャになったとかいうことをキーキー叫んでいるようです。


 …わ!だれ…あぁ!あイタ!…やめ…だれ、だれぇ!?あぁ!…


 こうして二人は、それぞれに必要な施設に送られることになりました。おっちゃんは呆然として傷の手当てを受け、女は、手首に番号札を付けられ注射を打たれ、沈黙の内に隔離されました。


 家に帰ったおっちゃんは、悲痛な叫びをあげました。体は軽症ですが、事件現場はヒドイことになっています。中年人生をかけた自慢の庭はひっちゃかめっちゃか、鉢植えは粉々に、満開の花は散り散りに、小枝は土に還ろうとしています。おっちゃんの春は唐突に終わりました。そしてお気の毒は、これからが本番なのです。


 息子が帰宅し、その様を眺めます。傍らには初めて連れて来たカノジョがいます。普段のおっちゃんならば、入学一か月にして早くも女がデキた息子を称えるでしょうが、そんな余裕はありません。包帯であちこち巻かれた悲惨な父親をいたわろうとする息子は話を聞くに及び、大人の醜態にうがった解釈を下すのに十分なタネを見ていました。ちょっと昔のオンナに復讐されてさ、お前も気をつけろよ、くらいに正直に話してくれればサッパリするものを、カッコつけんなよエロオヤジ、と息子は思いました。とにかく目の前の目的を達成するために父を無視することに決めたものの、カノジョの方は妙な空気に冷めてしまい、ムカつき千万なお別れを迎えることになってしまったのです。


 カノジョ云々は抜きにしても、息子の母親はうがった見解に納得で、おっちゃんを強力に問い詰めました。いくら知らない女だと訴えても、有罪は確定です。お気の毒に、おっちゃんは因縁の家にひとりぼっちで残されることになりました。元妻は再婚で新婚で私はまだまだ若いとの証明に忙しく、息子にすら邪魔されるつもりはテンでなかったのですから、結果として息子の寮生活が導き出され、わだかまりは高まり、養育費がグンッとつり上げられたワケなのです。


 息子の部屋も庭も中年ライフもスカスカになってなお、おっちゃんはくよくよと考えています。あの口裂け女は誰なのか、どうしてもわかりません。弁護士を通じて賠償金の支払がありましたが、満足な説明はありません。ちょっとした発作だったんだよゴメンね、くらいのもんでした。一般的に言って結構な額ですので、これ以上詮索しないようにとの条件でありました。


 こうして、「坂下玲子」という名の永遠の謎と共に、悪くない生活が保証されました。おっちゃんにはお金がいるのです。家のローンもありますから、いろいろ入り用で大変なんです。お金があればその内誰か新しいお相手が釣り上がって来ますから、希望を忘れず再起してほしいものですね。


 さあ、お気の毒はこれくらいにしてあげましょう。おっちゃんとはお別れし、若者の中へ突っ込みますよ。もうパーティーが始まっているので、タイムマシンは5年7か月と11日後に突進いたします。安全ベルトをご確認下さい。


 …ブイーンン…



 …アハハ、ハ、アハ、…


 機械に向かって笑う妙な男がいる。至る所で笑っている。姿は見えずとも、いちいちアハアハ聞こえてくる。ここがもし「安上がり欠陥だらけビルヂング壱番館」なら、マグネチュード5以上の揺れは確実である。アハアハを一旦中断、機械の間からにょきりと這い上がるその男は、じっとりとして不気味な大蜘蛛かと見える。人間であるからには目は二つのはずが、アルゴス的に無数の目を持つかのようであり、手足は合計四本のはずが、背中にもう一本二本、死神的大鎌が生えているかのようである。全身で獲物を狙うクモ歩きは無駄なくスキなく、アハアハを後に残して、何に向かってだか知らないが自己主張を振りまいている。特別上機嫌だから笑うのではない。股間に鶴の首をくっつけて歩いているからでもない。日常の業務として笑うのである。


 あきれるなかれ、回りの人間どもは、鶴の首を額にくっつけて浮かれている。何ともブラブラさせている。やはり未来の人間はイカれてると思われるだろうが、クリスマスで忘年会で雪んこ千鶴大成功パーティーで絶滅危具種ランド管理計画立ち上げパーティーとなれば納得していただくしかない。(第三章参照のこと)ただし、股間にくっつけているアホは一人だけなのでご安心を。そして、イヤイヤながらくっつけている人間も中には一人以上存在するのだ。


「アハ、なんだよ白井、辛気クセえなハハ、それでも飲んでんのか、アハ、」


「…少々趣味が悪くはないですか、主任。」


 クモ野郎は、剣持猛ケンモチタケルという随分いかつい名の持ち主だ。正々堂々と戦う男かに聞こえるが、アハ笑いのスイッチが振り切れている時は、まさに最低野郎である。股間におっ立てた鶴首を、部下である年上の女性に向かって、腰ごとブラブラして見せる男なのだ。まあこの場合、


 …コイツ、オレにホレてやがる…


 との確信があり、何をしても許されると思ってのことだが。


 白井未央は、咳払いに顔をしかめながら、額の鶴首を左右に振った。このパーティーを準備し、実際に起動させたのは未央であり、鶴首をくっつけてやったのも未央である。ご要望に応えるべく、ぬいぐるみを買って来ては首を切断、ちくちく縫い付けてやったのだ。クモ野郎は大ウケで、このアイデアを売り付けてやろうかと息巻いている。


「実は休暇が欲しいんですが。」


「ムリ!」


「もちろん正月パレードの期間が終わってからです。…母を看取るので。」


 クモ助は、実際ちょっと困ると思った。気の滅入る身の上話を聞くのもゴメン被る。


 …とにかくデカイ仕事にかかるところなんだぜぇ、よう、テレビの取材が来月からオレに張り付くんだからよ、カッコよく知的に決めんには白井に裏取らせねぇと…正直オレ動物とかって興味ねぇんだからよ…


 剣持は、自分の力量がイマイチなのをよく知っていた。それをうまくゴマかす術を何より心得ていた。金を掛けて学歴を固め、博士号をかっぱらうようにしてハカセとなり、上にも下にも愛想よく、使える人間を見極め、魅了し、利用する。責任を取れる男としてのカラクリがこれである。


「何だ、そんなに悪いのか?」


「余命一か月です。」


「そうか、そりゃ気の毒に。急な話で大変だな。」


「すぐ復帰しますから。」


 繰り返しになるが、二人とも鶴の首をくっつけて、浮かれた音楽を背に、このような話をしているのである。


「あ、これどうぞ、クッションにいいですよ。」


「ん?」


「タニーの下半身です。」←(雪んこ千鶴の相棒、タンチョウ鶴の名。カンフー等々の師範。著作権は海の向こうD社に帰属するアニメキャラクター)


「アハ、なるほど、首無し兄弟だな。」


「足をイスに結ぶと使いやすいです。長さもちょうどで。」


「アハ、コイツもいい商品になりそうだな。とりあえずケツにケツつけとくか。アハ!」


 絶滅危惧種であろうと、架空の存在であろうと、首がちょん切られていようと、鶴は鳥であり、飛べるものである。分解されて電波に乗せられようと、ネコの手を借りようと、宅急便のにいちゃんに放り投げられようと、タニーはアヒルでも白鳥でもない美しさを誇っている。…皆さんは2027年冬の世界5D公開をお楽しみに。(ただし、元砂漠の国々では永久に上演禁止になっています。悪しからず…)


 非合法な改造とは言え、哀れを誘う感はないのである。Dマニア森田璃々(モリタリリ)は、とびきりの笑顔を見せた。大好きなタニーが、大変面白い姿で届けられたのだからたまらないのだ。親友からの結婚前祝いとのことで、婚約者君の股間にくっつける用の首も完備、お二人でお楽しみをと、心のこもった格別なプレゼントとして、璃々には大変好ましく思われた。


 …いつもクールな未央だけど、さりげなくこんなに友達想いだしメチャメチャおもしろいんだから、最高だよ、アイシテルぜ!今度いつウチに来てくれるの?三人で盛り上がろうぜ!!…


 しかし今の未央は、表裏引き裂かれた心持ちであった。UFO的にも全く面白くない話だが、仕方がないのでご紹介差し上げる。


 プツッ…


 …ピーッ…



「私が何でこんなところに閉じ込められてるかって話した?絶対まだ話してないわね、びっくりよ、だって、自分の娘を殺したからなの!だってだってね、そりゃあひどいブスな子だったのよ!反応もニブいしね、バカなの、ロクな子に育たないからよ!私にも全然似てないし、父親にもよ、あの人ちょっとバカだったけど、カッコはよかったしね。やっぱり間違ってデキた子なんてどっかおかしいもんなのねぇ!私は前途ある学生だったのに、ヘンな男に引っ掛かって人生メチャクチャよ、あの時堕ろすべきだった!でもホント笑えるの、もっとバカな男が現れて、私と結婚したいって言うんだから!いくら私のことが好きだって言ってもね、他人の子供を育てたいなんて、ヘンな趣味すぎるでしょ!まぁ、私も格好つけなきゃいけないかなって、つい受けちゃってね、娘を産んだけどもうサイアク!ダンナの収入もロクでもなくて、アッチもおそまつ、狭い家で娘と二人っきり、耐えられるわけないでしょ!苦労したって感謝できるアタマもない子を育てる意味がどこにあるんだか!国だってメイワクでしょ!で、そんな事故なんていくらでもあるんだから、クッションをちょっと当ててればすぐよ、真ッ青になって死んだの、仕方ないでしょ!ね?私の方がおかしくなっちゃう!で、ダンナに見つかってこんなよ、今は。ホントに私が好きなら事故だって言ってくれれば済んだのに、ヒドいわよねぇ!犯罪者!私だけが?おかしいじゃない、男どもはいつも正しいお偉いさんってわけ?ヤリたいだけヤッてどうして許されるのよ!自由とか平等なんか、この世にはないのね!女はいつの時代も奴隷のまま!ねえ先生、私おかしくないでしょ?いつまでこんなところにいればいいの?まだやり直せるでしょ、私。」


「坂下さん、あなた勘違いしてるのよ、娘さんは死んでないでしょ、ほら、ここにいるわよ、立派に育って、どこもおかしくないじゃないの。お母さんのために来てくれてるのに、親孝行ないい子でしょ、しっかりしなさい。それがわからないと、あなたはここを出られないのよ。」


「違うのよ、娘は死んだの。そうでなきゃなんで私が犯罪者扱いされてるのよ?ハカセが私を売ったんでしょ?」


「いいえ、傷害事件を起こしたでしょ?どこかの男性に。娘さんは関係ないの、だんなさんが立派に育ててくれたのよ。よく思い出して。もう時間がないんだから。あなたは病気なのよ。」


 …ピーッ…

 


 …ねーうしとら、うーたつみー、うま、ひつじ、さる、さるさるさるサル…


 サルがウキーッと叫んでいる。唇を裏ッ返して泡飛ばし、そこらを叩き回って飛び跳ねて、うっさいったらありゃしない。山の上で騒ぎまくって主張して、せっかくのキラキラなる森を蹂躙、崖を転がり落ちてもなお叫ぶ、哀れなサルさるサルさるサル…


 サルが見た景色は、かつての水田跡地だ。あれから三十年、立派な住宅街になっている。倫子が来るはずがないことも、玲子にはもう分からなかった。約束の地を探し回って、お気の毒なおっちゃんの家の表札に行き当たり、フラッシュバックに飲み込まれたのだ。未央の父親という大学時代の男と、おっちゃんは同名だった。それだけだった。ハカセが名前を耳にしていれば解けたことだが、その時ハカセは砂漠の宮殿でボケボケだった。かつて生まれたての娘を殺そうとする妻を止めることはできたが、思わぬエネルギー革命に囚われ、関係修復も離婚する間もなくなってしまった。妻は永遠の入院生活へ、娘は全寮制教育へ押し流され、それぞれが別の壁を見つめて生きて来たのである。ウキキッ…


 治療の副作用があるとは、未央も聞かされていた。末期的痛みを徹底的に取り除く過程で脳の一部が覚醒し、時には誤作動以上に錯乱する場合もある。だが、母は元来そういう人間だ。子供の頃母を見舞った時、ウッキーキーと拒絶されたことを、未央は忘れたことがない。周囲の者にお気の毒弾を乱射しまくって来た人間が、死期を悟って娘と和解するなど、期待できるはずもなかった。


 お気の毒を超越した猛毒が、繰り返し未央を襲う。母に殺されかけたこと、父が父でなかったこと、生まれただけでそんなにも強く疎まれたこと、母は責任感も道徳観も何もなく救いようがない死すべき人間であること、この病んだ精神を自分が受け継いでいること、自分のために切り捨てたい絆であること…。逃げたい、消したい、忘れたい…、しかし知ってしまった以上は、何をしても切り離せはしないのだ。


 地下鉄を乗り継ぎ乗り継ぎ地上に出た頃、未央の失望は怒りに変わった。鉄の手を持つ娘でも、残念ながら機械にはなれない。怒りを保つには体力がいる。感情は疲労し切って、空っぽの涙を解き放つ。悲しみだけが涙を呼ぶものではない。声無く泣き崩れれば、生命力が奪われて行く。そして、すべてが尽きる前に、本能は凍り付く。再起動に向け思い出せと、脳は必死の信号を送る。


 母とは違うこの手を、社会に役立てるのだ。希望があり、絶望はまだ足りない。何より欲しいものがあるはずだ。クモ野郎の背中、肩、指を、アイツに包まれたらどうなるだろうかと、離れていても思わずにいられないなら、立ち上がるのだ。行って、男と共に笑うがよい。



 お気の毒が積み上がった山の上で、人間は人生を営んでいる。キラキラする豊かな森に囲まれてはいるが、そこを抜ければ断崖絶壁が待っている。いつ転げ落ちるかもしれない恐ろしさを知る者は、お気の毒のど真ん中で縮まって、外に出ることはできないのである。いつからか、坂下玲子は転げ落ちた。救いの手をも巻き込もうと、崖の下の激流から、ウキキッと今なお叫んでいる。


 再起動の信号は、アハ笑いとなって未央の冷たい体から這い上がった。では、お気の毒の山の上から、笑ってお別れといこうじゃないか。ウキャッ。仕方がない、人間たるもの、すべて滑稽を生きるのだ。

ここまでお読み下さり、ありがとうございます。

次章で終話となります。今月中に投稿しようと思います。

続編はありますが、流れが変わるので、七章までを第一部として区切ります。

第二部以降も、よろしければまた読んでみて下さい。

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