第一章 リンリン・1995
カワタサイクルのオヤジは、夢見心地で息をしている。自転車屋という日常が、美しく照らされるのを見ている。孤軍奮闘する扇風機、油まみれの工具たち、がなりあげる古ラジオ、新品の自転車で埋め尽くされた壁、望み得る最上の客が座るイス。今耳にした「こんにちは、オジさん」、幻想の中の、もしも…。そのウキウキは、週一度、正しく舞い降りてくれるだ。
六十にもなったオヤジの「心の君」は、大学受験を控えた岡山倫子だ。年々減りつつあるカワタサイクルの顧客である。愛車の定期点検のために律儀に通う客であって、オヤジがスカートをめくり上げたいなどと妄想を膨らます相手ではもちろんないことを、ここにお断りしておく。…以下参照のこと。
地域に根を張った商店街の一員として、倫子のことを生まれる前から知るオヤジは、自身の息子が小学生の時、倫子の母に教わったことを非常に感謝していた。倫子の父についても、町内会に貢献する人格者と評価していた。両親共が立派な教師であるというだけでも感心であり、息子と違い、県内随一の名門校に通う倫子が、人類史上最も偉大な発明である自転車の価値を知り、感謝する心を持つ娘であることが、オヤジの琴線に触れるのである。
…今時珍しい、モノを大切にする娘さんだ、見上げたもんだ!…
無口な職人気質のオヤジは、倫子に愛車を磨く手を見守られ、バラ色の頬を内に宿すのだ。 外からは無論、黒く煤けた顔に何かが見えるはずもなく、一人、幻想と思い出の中を泳ぐのである。
十数年前、母の自転車にイスを取り付け、小さな倫子を乗せてやったのはオヤジであった。あの瞬間の、満足そうに足をブラブラする笑顔の可愛らしさは、オヤジの揺るぎない誇りの一部だ。地元の子供たちが自転車と共に成長する様を見るのは、自転車屋の醍醐味である。あんな娘さんにお父さんと呼ばれたいものだ、後を継ぎそうにはないアホ息子など…とボヤくオヤジであった。
そして、三年前である。高校進学を決めた倫子が、一人店にやって来た。キチンとあいさつをし、新車を見せて欲しいと断りを入れる中学生など、これまた、なかなか見上げたもんである。
…オォ、岡山先生のとこの倫子ちゃんか、通学用の新車だね?さすがにS高に決まったそうだね、合格おめでとう!やっぱり将来は先生になるんだろ?お母さんはそりゃいい先生だからね、後継いで頑張ってほしいもんだよ!…
などとしゃべくりたい気持ちがないでもないが、キャラクター上、手短にあいさつを返しただけのオヤジは、少々フワフワしながら、仕事中のフリで、チラチラ倫子に目をやってた。
まさか倫子が、小さい頃からお年玉などをコツコツためた貯金から支払うつもりだとは、駅までではなく、どう飛ばしても1時間近くかかる高校までチャリ通で通すつもりだとは、夏の日も冬の日も、雨だろうが雪だろうが自力で通うほど意志強固だったとは、オヤジに想像できるわけもなかった。
落ち着き払った態度で、じっくりと自転車を見定める倫子は、赤などの女の子らしい色のものは素通りし、シルバーの個体に目をとめた。
…派手な見てくれにだまされず、自転車選びの基本をわかってくれている!…
オヤジ心は感動に舞った。基礎を成す金属本来の磨き抜かれた色に、安定した乗り心地を実現する形、軽量化を実現した技術の美学、そして、使い込むほどに輝く原石を見抜いてくれたと思ったのである。
戦後の焼け野原に育ったオヤジは、子供心に、人力の美しさに魅せられていた。臭気を発するガソリンなど無くとも、人々が、自らの手足で町を復興する姿の凛々しさだ。かつての父親のように、不本意な戦車を造らずに済む時代に感謝した。オヤジは、人力を至高へ導いた車輪と、鉄の平和利用を切に願った。そうして、国民に遍くチャリを‼キャンペーンが、オヤジの内では華々しく展開された。カワタモーターとは決してならない理想の王国を手に入れ、黙々と準備を整え、客を待った。
…ご存じのように、どの世界も、語らない背中を見て理解してくれるほど物分かりが良くはない。それでも、倫子のような若者がいるのだ、未来を疑うことはない。オヤジは意気揚々だ。
リンリンっ、と、倫子は控え目にベルを鳴らした。ダジャレのつもりではもちろんなく、倫子にはその音が他人には感じられなかった。それは倫子にとって、自由の鐘である。自ら選び、支払い、磨き育てる平凡な自転車が、共に力を合わせ、どこへでも行ける自由を与えてくれた。銀の車体が、倫子にしか見えない色に輝く。うれしくて、倫子は笑った。本当は赤が欲しかったが、今後弟たちが使ってもおかしくない色、という観点でそのシルバーを選んだのである。これもまた、オヤジが知るはずもないことだった。倫子もまた、語らないのである。
「また来週」、語らぬ者同士の、風変わりな心の交流がここに始まった。
家と学校を結ぶ道は、無数のパターンを持っている。放課後、愛車とドライブを楽しむ倫子には、それが奇跡のように感じられた。どの道も、ただの道がキラキラしていた。最も遠回りの通学路には、水田跡地が鎮座していた。倫子もかつては現役だったその地で、ザリガニを捕ったり遊んだものだが、今や開発の波に飲まれ、埋められて寝かされている土地だった。草に覆われ、木も植えられ、居心地は悪くなかったが、単なる空き地にすぎないはずの場所である。
そこが、倫子にとっての秘密基地であり、誰にも邪魔されない勉強部屋になった。この夏、弟たちの子育てからの解放を母に宣言されたものの、一人になれる場所は家にはなかった。倫子は、ここで空を見ているだけで楽しかった。自分であることを、はじめて独り占めできた。愛車も緑と調和している。ここに生まれて幸せだと思った。
暑さも和らいだ九月の終わり、基地の前の通りに、別の自転車のブレーキ音が響いた。
「リンコ!リンコでしょ!ちょっとぉ、全ッ然変わってないじゃん!すぐわかっちゃったんだけど~!」
「…え、えっと、もしかしてレーコちゃん?」
「アタリマエ~!ナニナニ?私めっちゃキレイになっちゃってわかんなかったぁ?」
「え、うん、そうだね、すごく大人っぽくなったね…、やっぱり制服がかわいいといいよね!でも、スカート短くない?大丈夫?」
「はぁー?イマドキの女子高生はパンツ見せてナンボでしょ!リンコってば、マジ髪形ぐらい変えて~中学ん時と全然同じじゃん!」
倫子は面喰らっていた。革命的雪解けにも思えた。唐突に登場した坂下玲子とは、確かに中学校時代、同じ教室に学んだ。玲子は花形グループの筆頭、倫子は委員長グループの脇役である。両者は交流がなく、倫子は玲子に嫌われていると思ったものだ。玲子は、そんな感情からではなく、カラーの違いを態度で示していただけだった。どちらにせよ、玲子には自覚はなく、倫子には、玲子に「リンコ」と呼ばれた記憶がなかった。口を利いたことがあるかも疑問だ。これは一体どうしたことか…。
「何してんの?これから予備校?」
「えっ、ウウン、フラフラしてただけ。帰ろうかなって。」
「前からこの道使ってた?今まで会ったことないじゃん、ぷっ、ちょっと何、もしかしてウチら、全然仲良くなかったっけ?そーでしょ!ビックリ?忘れてたー。でもなつかしいじゃん、ね!だってさ、リンコが変わんないからだよ、笑えるって、ツっ込むしかないでしょー!え、アタシ昔、リンコにヘンなことしてないよね?ウンウン、オッケー!あ、ユッコって覚えてるでしょ?アイツ学校やめたってさー、もう妊娠したって!サイテーでしょー!勝手にしてよねぇ!リンコ今ヒマしてんだよね、コバラ減った!コンビニ行くよー!」
対照的な二人である。たまたま同世代に同地域に育ったこと以外、共通点は見出せない。それが気になる倫子と、既に忘れている玲子は、子供なりの人間関係から解放され、一対一で向き合うことになったのである。
「ラーメンか、ヤキソバか、うーん、ポッキーも。リンコはどっちにすんの?」
倫子の背筋に冷たい感覚が走った。来年を思って貯金をと心掛けていたからだ。しかし、滅多に入らないコンビニを見て回り、玲子の食品講談を聞くのは、楽しい誘惑だった。
「え!?インスタントを食べたことがない?はぁ?」
玲子は所構わず笑い続けた。独自の言語でインスタント食品の調理法を教えながらも、随分と長く続いた。そうなるともう、倫子も笑うしかない。
「しょーがないヤツ!そんなんじゃカレシもいないんでしょ!」
…当然だ。
「ったく、どっか座るよー!」
倫子は、喜んで秘密基地を開放した。玲子も、その居心地の良さを認めた。
「レーコちゃんはいるの?彼氏…。」
「うっとーしいから捨てた。」
んぐ…ヤキソバが鼻に詰まりそうになる倫子。
「これ、おいしいね、ヤキソバ…。」
「でしょ、お菓子も食べな、かわいそうに、こんなのも食べたことないんでしょ?細いからジャンジャン食べてよし!道連れにしたる!っとバカな男でさ!」
倫子の耳に過激なカレシ談義が更に続いた。それだけ食べながらよくそんなに話ができるものと、感心でもあった。
「で?気になる人ぐらいいるんでしょ?もしかしてみんなガリベンで魅力なし?あ、わかっちゃった、先生でしょ!」
廊下の奥から、独特のリズムを刻む足音が聞こえる。倫子の息を止め、笑顔を呼び覚ます。それがときめきだと認めるまでには、かなりの自省を要したものだ。
「当たっちゃった、アタシって天才!数学とか?物理とか!?」
「音楽だよ…。」
これも、誰にも語ったことはなかった。相手が教師では、仕様がないとして。学校でどこにいても、ピアノの音か、楽しげな足音を探していたのに。家にいても、弟たちの騒動を越えて耳に響いていたのに。そして先日、結婚の発表をする幸せそうな本人を見せられたのであった。オーケストラで一緒の…云々。倫子としては、やっぱりいたんだ、と笑顔で拍手を送ることにしたのだった。
「じゃあさ、卒業式でコクんの?もしかして自分も先生になってからどうにかしようと思ってんの?そこまで執念深くない?」
「…すごいね、レーコちゃん。そんなに考えたことないよ。」
「よし、ダサイ先生はやめな!このまま一気にオバさんになるつもり?来年はどーにかしなさいよ、大学行けばヤリ放題だって!」
「いいの、私は生まれつき中年だから!大丈夫、そのうち年が追いついてちょーどよくなるから。」
「ぷっ、昭和クサっ!」
周囲を気にせず豪快に笑って、食べて、喋る、忘れる、そして前を見る、それが倫子の知らない若さだった。こうして、秘密基地に新風が吹き荒れるようになった。気紛れに、不規則に。
倫子はお馴染みのピッカピカの愛車に、玲子は赤いデザインの、手入れの緩い自転車に座っていた。土はもう冷たかった。
「レーコは、三十年後って何してると思う?」
「は?何でそんな先?えぇ、ウチらもう五十だよ、想像したくないよ、アハ、ホントヘンな子だね、リンコってば。」
「ゴメン、例えば三十年後ってどうなってるかな、って思ったの。正直ちょっと怖いかな。」
「リンコの場合は疑い様がないでしょ、先生して、先生と結婚して、子供二、三人ってとこだね。地球が滅びるワケないし、うまく行くって!アタシもテキトーにやってるでしょ。」
「三十年後にもここで会えるといいな。」
「わかったよ、同窓会って?コドモでもダンナでも好きに連れといで!ホレ、もっと食べなさい、ガリ子!」
倫子は、大学受験という壁に正面からの突破を図り、玲子は、付属高校からこだわりなくストレート、髪も乱れぬ大学入学を決めていた。体調管理に気を使うべき季節、未だ倫子には秘密基地が欠かせなかったが、玲子は通学路を変更した。母親の車により、絶対的管理の元に置かれたのである。
玲子の自転車は錆び、咳をしながら春を待ち、倫子の愛車は磨き抜かれ、体力も抵抗力も強固だった。ある種の機械を携帯しない友情では、無理に繋がろうとはしないものだ。玲子は、人力を超越したところに導かれた。それぞれに事情があるものと、倫子は思った。
受験本番、その時は、等しく受験生に訪れる。倫子は、綿密に立てた計画を開始し、首都の混雑を学んでいた。その大学が特別だった訳ではない。始まったばかりの、計画の一部だった。満員電車、どれに乗って、どこで降りるか、どのくらい歩くのか。この日も、明日も、計画通りに暮れるはずだった。
車内アナウンスが流れた。開くドアは左だ。抜け目なく駅に降り立ち、流れに乗って歩き始めたが、すぐに急に立ち止まった。サラリーマンが何人か倫子にぶつかり、心中では舌打ちをしながら、バッグを避けて流れて行った。
切符がないのだ。ポケットを探り、倫子は戦慄を覚えた。絶対ここに入れたこと、いつもここに入れることが、計画の一部だった。ベンチに座った。まだ時間はある。すべてのポケット中、バッグ中を調べた。
人の流れは一時落ち着いていた。次の電車が来るとのアナウンスが、ホームに響いた。その音は、倫子の耳には入らなかった。この世から、すべての音が消えてしまったようだった。倫子は、整え直したバッグを手に、前を見据えて立ち上がった。そしてた電車の緑のラインに、そのまま、吸い寄せられた。
カワタサイクルのオヤジは、激しく体を洗った。愛する自転車たちを磨くため、自身がどんなに油じみようが、いつもは顧みなかったのが、妻の一言が、オヤジを風呂に押し込んだのだ。慣れない泡と格闘しながら、父親の言葉がいかに正しかったか、皮を削られるように思い知らされていた。
オヤジの父は、「いいか、地獄ってのはこの世にあんだ」という名言を残し、飲んだくれた揚げ句に凍死していた。オヤジは、父が飲む度にしつこく何度もこれを繰り返していたことを、母親から聞かされていた。しかし、聞かされていない事実の方が多かった。父は地獄の詳細は語らなかった。これは父に限らず、当時地獄を体験した人々に共通していることと言える。自身が何を見たのか、あるいは行ったのか。現実に耐え抜き、語れるようになるにも、何十年という月日が必要だった。
その日、父はいつものように、存分に酔っ払って帰った。母は、鍵を掛け、雨戸には釘を打ち付けていた。締め出された父は怒り狂い、しばらく騒いだが、力尽き、眠ったまま死んでいた。母は、唯一生き残った幼い息子と、上の娘二人を守り抜いた。釘のことなどは、一切語らなかった。父は、名言の正しさを証明するように、自らの家庭で地獄を実現させていたのだ。
オヤジの妻は、他人事な同情を込めて、その知らせを持ち込んだ。妻としては、先生を尊敬してはいるし、夫もそうだとは知っていたが、まさかその娘を心の君として崇めているなどと、想像できるはずもなかった。妻は、飛び込んだ、と言った。願わくば身代わりにとのつもりで、オヤジは身を整えた。そんな手順など知らなかったが、自分が棺に横たわる姿を思い描いた。それが道理だろう、若者が自ら黒枠に踏み入るなど…。妻は耳元で、方々で仕入れた噂を語り続ける。
…目擊者の目の前で…ホームで衝突…頭を打って即…賠償…オヤジは聞かない。
棺は開かれている。最悪を思っていたオヤジは、息をついた。見慣れた制服を着せられている、確かに倫子で間違いはない。少なくとも、会えた。顔を見て確かめられた。だが、それが慰めになるのだろうか。
同じ制服がすすり泣き、黒い大人たちはしおらしく目を伏せる。庭先には、輝きを失った愛車がある。誰も気に留めてはいない。葬列の流れと妻が、オヤジと倫子の絆を裁つ。倫子の愛車は、オヤジの手入れの届かない領域に行ってしまった。
倫子は良き娘であり、良き姉であり、良き友であり、良き生徒であった。誰もが認めるはずである。しかしそれは、その心を満たすものではなかった。一体何が不足だったのか、答えが見つからないという地獄がここにある。あの名言は正しかったが、オヤジには、父の存在は遠すぎた。
カワタサイクルの日常に戻ったオヤジは、店を開け、ラジオをどつく。それから座ったまま、動かない。自転車たちに挨拶もしない。雪が降ろうと、半袖のツナギのまま、座っている。
ゲンキンな古ラジオは、阪神・淡路大震災の惨状を叫んでいる。日々犠牲者数が増え、救出劇の感動が伝えられても、オヤジはもう知っていた。地獄はあの世にはなく、死んだ者は、これ以上苦しむことはないことを。だが残された者は、理解を超えたこの世であろうと、生きなければならないことを。
いきなり暗い話で申し訳ありません。
序章①ということで、今後は徐々に明るく(?)ぶっ飛んだ展開になって行きますので、よろしければ次章もお読みいただければと思います。
初投稿で不慣れな点、ご了承お願いいたします。