千里の眸
*この物語はフィクションであり、実在する人物・団体・地名とは一切関係ありません。
*作品中で、実在の病名や症状などが登場しますが、奏木はそれらの専門家ではありません。ご留意ください。
それは、俺の目には暗い色をした靄のように映る。
「望、無理してんだろ。ちょっと休め」
「……いつも不思議なんだけど、なんで、ヒナにはわかるのかなぁ」
重たそうな靄を背負って、ふにゃりと望は力のない笑顔を見せる。その華奢な背中をしばらく撫でてやると、少しずつ、黒い靄が薄れ、晴れていく。
──おそらくは、瘴気、などという言葉で表されるようなもの。
幼少期から、それこそ物心つく前から、当然のように見えていた。そして、瘴気の靄について俺が持つ知識のほとんどは、この一歳年下の幼馴染みを見ていて学んだものだ。
望は、よくこうやって靄に襲われ、体調を崩す。で、理屈もなにもわからないが、どうやら俺が触れると、この靄はある程度晴らすことができるらしい。瘴気が払われれば、体調も整う。
だから俺は時折、望の頭を撫でてみたりなんかするわけだが。
そういうとき、望はいつも、少しだけ不思議そうに首を傾げて。それから、飴色の目を細め、やわらかく笑う。
さて。
俺が所属する部活は、図書活用研究会。無害な研究会の皮を被った、曲者たちの巣窟。……これでもだいぶ控えめに言葉を選んでいるのだから、酷いものである。世の中の、真面目に活動している、ほかの図書研究会に謝れ。というかあまりに申し訳ないから勝手に俺が代表して謝る。ごめんなさい。
もともと、この小さな研究会には、瘴気を引き寄せやすい人が集う傾向があるようで。十人もいない研究会で、うち四人がつねに靄を背負っている、ってのはいったいなんなのか。しかも望以外はみんな女子だから、うかつに触れて払ってもやれないし。
だが。──それにしたって、これはどうなんだ。
我らが研究会に加わった新一年生たち。そのひとり、木庭真琴、という男子生徒。
その、彼の顔が。俺にはまったく見えなかったのだ。
頭のほとんどを覆う、どす黒い瘴気。ここまでのものを目にしたのは、はじめてだった。
人からの、悪意、害意。そういうものもまた瘴気となって、それを向けられ、受けた人の背に、肩に、積もる。それは、経験則として知っていたけれども。この少年は、どれほどのものを、その薄い肩で背負ってきたのか。
……望が過去最大級に体調を崩して寝込んだときだって、顔はちゃんと見えたぞ、おい。
顔が見えないということは、すなわち、表情が見えないということでもあり。せめて声からあれこれ推察しようと数日間かけて試みはしたものの、この木庭という少年、感情表現が全体的に希薄なのだ。距離を感じさせる、徹底して丁寧な言葉遣い。抑揚の消え失せた声。なにを察しろと。「近寄るな」以外のメッセージが聞こえてきやしねぇ。
こんなになってしまうほどの瘴気を負って、こんなに頑ななまでに人を遠ざけて。
こいつの心は、体は、どうなる。
健康だとは、どうしても思えない。いつぶっ壊れてもおかしくない。いや、すでに粉々でも、なにも不思議じゃない。
──俺の予想は当たっていた。当たってほしくなかった。
ある日の放課後、部室にて。新入生たちが入部して、一週間ほどが過ぎようとしていたころのこと。
その日部活に来ていたのは、俺と望、それから木庭の三人で。俺たちふたりが、飲み物を買いに部室を離れた。気をつけて、と相変わらず平坦な声に見送られて。
部室に、戻ってきたとき。その光景に、頭が真っ白になった。
なんだ、これは。
──これは、なんだ?
彼は、床に倒れていた。あきらかに異常な呼吸音。瘴気は、彼の細い体のほとんどを、埋め尽くそうとしていて。
凍りついた俺と対照的に、望は一片の迷いもない。買ってきたスポーツドリンクのペットボトル、その栓をきゅっと切り、いったん近くの机に置く。小さな拳に、強く背中を叩かれた。
「ヒナ。僕で慣れてるよね、過呼吸発作」
「過呼吸。……過換気症候群?」
「診断するのは僕らの仕事じゃないし、僕らが判断していいことでもない。それに、いまは診断名なんかどうでもいい。目の前で起こっているこの現象がすべて。でしょ?」
落ち着き払ったその声。思考停止していた頭が、急速に回り始める。こういう咄嗟の判断は敵わないなと、思う。倒れたままの彼の近くに、膝をついた。
「木庭、わかるか?」
呼吸音に負けない程度に、声を張る。彼の頭がわずかに動いて、こちらを向いた、ような。靄で顔が見えないのが災いして、判断がつかない。
「ん、起こしてあげて。横になれる場所があれば、そのほうがいいんだけど……まだこの時期だと床は冷たいし。手足痺れて感覚なくなってると思うから、慎重にお願い」
「了解。──身体、起こすぞ」
望の見立て通り、木庭は四肢に力が入らなくなっていた。そっと抱き起こして、彼の頭を肩口で受け止め背中をさする。
「だいじょうぶだから。ゆっくり息吐いてみな」
大切なのは、周りが慌てず落ち着いていること。いちばん怖いのは発作の渦中にいる本人なのだ、周囲が動揺してその恐怖感を煽ってはいけない。こちとら幼少期から幼馴染みが発作起こすのを何度も見てきた身だ。
望とふたりで、ひたすら声をかけ続ける。呼吸のテンポを整えるように、ゆっくり背を撫でる。けれど、その先は、本人の力で乗り越えてもらうしかない。
瘴気の欠片が、べり、と剥がれ落ちる。ぼろぼろ、ばらばら。靄が晴れていくのと同調するように、呼吸の音が少しずつ、整っていく。
やがて発作がおさまると、消耗しきっていたのだろう、彼は意識を手放すようにかくりと眠り込んでしまった。そうして彼が眠っているあいだも、ずっとその背中を撫でていた。真っ黒に覆われて見えなかった彼の顔が、ようやく見えるようになる。刃のよう、という形容が浮かんだ。極限まで研ぎ澄まされた刃は鋭く、脆い。
雲間からの日差しが、きらきらと金色に光る。それが眩しかったらしい、うっすらと彼がまぶたを持ち上げる。
「あ、起きた。おはよー、真琴」
望がふわりと笑った。スポーツドリンクのペットボトルを手に取って、表面の露をハンカチで拭ってから差し出す。
「これ、『中途半端に甘くて嫌い』だっていうのは知ってるんだけど。いまはちょっと我慢して飲んで」
「……。日名さんと、金石、か」
数秒、彼はぼんやりとペットボトルを眺めていた。慎重に身を起こし、呟く。
「発作起こしたのか、俺」
「理解が早いねー、真琴は。その様子だと、ある程度の頻度で見舞われてるのかな」
「ん、一昨年の秋から慢性化してる」
「あー。きついね」
さらりと望は言い、淡い色の髪を揺らして笑う。そこに隠された重みを、彼は正確に読み解いたようだった。スポーツドリンクに口をつけて、かすかに苦笑する。
その彼を、真琴、と下の名前で呼んだのは、ほとんど無意識で。わずかに彼がその鋭利な目をまるくして、それがなんだかおかしかった。
「ひとりになろうとすんなよ」
望は、俺の言葉にきょとんとしていた。一方の真琴は、深い黒の双眸で、静かにこちらを見つめている。
「なにがあって、こんなことになったのかは知らない。無理に聞き出すつもりもない」
ただ、と俺はつけ加える。
「お前が、なんかすげー重たいもの抱えて苦しんでんのは、わかる。それが少しでも軽くなればいいと思うし、俺らで軽くしてやれるんならそうしてやりたいとも思う」
まあそんなわけだ。飴色の猫っ毛とさらさらの黒髪とを、ぐしゃっと撫でる。わずかに残っていた靄が、ふわりと金色の空気に溶けて、消えた。
瘴気、靄などと仮に呼んでいるそれが、なんなのか。どうして俺にだけ見えるのか、本当に他の人には見えないのか。正確なところを俺は知らない。おそらく一生、知りようがない。まあ、なんでもいいんだが。
──ひとつ、言えることがあるとするなら。
俺の大事なものに仇なせば、容赦してやる理由はない。
奥附
2015年12月15日 第一稿完成
2015年12月16日 本ページを公開